「ペスト」を読んでいるときに全体を通じて感じるのはキリスト教に対する批判的な思想です。
私はキリスト教徒ではないのですが、そこまで言うか、と思えるくらいのセリフも見られます。

パヌルー神父のありがたい?説教
14世紀にペストが大流行した時にキリスト教会への不信が広がりマルティン・ルターの宗教改革につながっていきました。ペストの猛烈な禍いの前にキリスト教という信仰はなすすべもなく、生き残った信者の心を救うことも困難だったということかもしれません。
カミュの「ペスト」でもキリスト教の無力が描写されます、これでもか、というほどに。パヌルー神父はかなり影響力のある神父さんとして登場します。その説教の様子は迫力があり聞きにきている人も雰囲気に飲み込まれていきます。しかし、その内容は懸命に生きたいと考える人間にとっては受け入れ難い内容でもあります。このペストは天から与えられた罰だと説教します、そして運命を受け入れなさいと。
一方で信者たちの中に私達は敬虔なキリスト教徒だからペストなんかにかかるわけがないと本気で言っている人がいます。側から見ればそれらはすべて思い込みでしかないのですが、私達は罰なんか受けるはずがないと、彼らはそう考えているということです。ある意味幸せな人達ですが、人として思想するということは放棄している状態と言えます。
感染症によっては子供はかかりにくいものもあり致死率も年齢別で違いがあったり、いろいろですがペストは大人も子供も関係なく襲いかかる最もたちの悪い感染症のひとつです。この小説中にペストに襲われて死んでしまう子供の様子が鮮烈に描写されます。血清に最後の望みを託して主人公の医師タルーが子供に注射をします。効果は亡くなるまでの時間が少し伸びたくらいのもので、子供が苦しむ様子はかわいそうになります。この描写は読み進むのが辛いとすら感じます、特にまだ小さい子を持つ親としては胸をえぐられるような感覚になります。
たじたじのパヌルー神父、医師リウーは神を信じない
この亡くなった子供に何か罪があったのか、いや何の罪もないでしょう。主人公の医師であるリウーはパヌルー神父に怒ったように言います「まったく、あの子だけは、少なくとも罪のない者でした。あなたもそれはご存じのはずです!」
パヌルーは言います「どうしてあんなに怒ったような言い方をなさったのです。私だってあの光景は見るにしのびなかったのですよ」
「どうも済みませんでした。もう一度おわびします」「あんな癇癪はもう二度とおこしません」リウーは言いました。
まあ、確かにパヌルー神父にそんなに怒っても意味はないので、かなりリウーも取り乱していたということですが、このやり取りかなりシリアスな場面なのにちょっと笑ってしまいました。でもリウーは最後に強烈なセリフを放ちます。
「僕が憎んでいるのは死と不幸です。それはわかっているはずです。そうして、あなたが望まれようと望まれまいと、われわれは一緒になって、それを忍び、それと戦っているんです」
リウーは神は信じていないこと、死を罪として受け入れることは一切拒否して戦う意思を明確に示しています。強烈なキリスト教へのアンチテーゼを示します。カミュはこの小説のひとつの大きなテーマとしてキリスト教批判を掲げていたはずです。でなければここまでのセリフを主人公に言わせないでしょう。なんか、カッコいいなと思ってしまうのは私だけでしょうか。
一方でそこまで神父さんの前で言わんでもいいやんけ、と思う自分もいます。もうちょっとやんわりと言うとかできないものかと。まあ、こういう主張ができるのは、それだけフランス人達は個が強く日本人とは違うメンタルを持っているということかもしれません。