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リテラシーについて

リテラシーというと最近はネットリテラシーのことを言っていることが多いですが、自分の体験と紐づけてリテラシーとは何なのか考えてみます。

距離感がメチャクチャな地図

仕事の都合で役所に相談や打合せに行くことがたまにあります。給水の受水槽の容量などについて見解を確認するための打合せでした。千葉県内のとある市役所に行ったところ水道事業所というのがそこから離れた場所にあるとのこと。窓口のおばちゃんが地図を差し出してくれたのですがその地図を見た感じ、そんなに遠くないな、目的地まで5分くらい?という印象だったので「わかりました歩いて行きます、ありがとうございます」と言って去ろうとしたところ「歩いて行くとちょっと遠いかもしれませんよ…」と言うので「距離的にどれくらいですか?」と聞きました。しかし明確な答えは返ってきません。「あの…車とかで来られたのですか?」「いいえ、歩きです。」

で、結局はっきりした回答がないのでスマホでGoogleマップをチラ見して、なんとなく歩けそうな感じだったので「大丈夫です、たぶん歩けるので」と言い残して市役所を出て歩き始めました。

オチはだいたいわかると思いますが、歩き始めて少しして、この地図スケール感おかしくね?と気付きました。歩き始めてから5分はすでに経過して、でもGoogleマップを見た感じ行けそうな気がしたのでとりあえず歩を進めたわけです。そして交差点で左に曲がって信号機を目印にして歩いていたのですが、交差点の次の信号機の次、3つ目の信号機が無いな?と思って遠くに目をやったら霞んで見える信号機を発見しました。信号機を二度見してからスマホでGoogleマップをもう一度確認してみたところ3つ目の信号機まで600m程度あることがわかりました。そして信号機が赤なのを見て600m先の信号機って意外と肉眼で確認できるんだ…と感慨にふけると同時に、これは市役所から目的地まで全部で2kmくらいあるな…とそこでやっとわかりました。炎天下の中ほとんど日影のない歩道を25分くらいでしょうか、歩いてやっと水道事業所に到着しましたが、熱中症になりそうな勢いの暑さでした。スポーツドリンクを買ってしのぎましたが。

地図を読み取るためのリテラシーがなかった…

リテラシーという言葉についてですがその意味を調べると

“「なんらかの分野で用いられている記述体系を理解し、整理し、活用する能力」を呼ぶようにもなっている(例:「会計リテラシー」など)。そしてまた、「書かれた(印刷された)言語に限らず、様々な言語、コミュニケーションの媒体(例えば、ボディランゲージ画像映像 等まで含む)を適切に読み取り、適切に分析し、適切にその媒体で記述・表現できること」などを指すようになってきている。”

Wikipediaより

つまり私には役所でもらった地図を正確に読み解くだけの「リテラシー」がなかったという言い方をすることができます。Googleマップを見ても最初はそんなに遠くないでしょう、という思い込みがあるためチラ見しかしなかったことが敗因です。歩き出す前に、もっとよくGoogleマップと役所からもらった地図を比較して見るべきだったのです。そうすれば信号機間が600mあること、水道事業所まで2km以上あることは歩き出す前にわかったはずです。タクシーを呼ぶこともできたでしょうし、歩くとしてもそれなりの覚悟を持って行けたかもしれない、少なくとも無駄に騙されたような気分になることはなかったはずです。地図を見て何か変だなと思わなければいけなかったのですが、そんなに遠くないはずという思い込みで間違った読み込みをしたということです。

ただ、ひとつだけ言っておきたいのは2個目と3個目の信号機まで600m程度あったのに対して3個目と4個目の信号機の間は200m程度。これを同じスパンで描いてある地図もおかしいと思う…なんと言うか、だまし絵みたいになっちゃってますから。もっと言うとあたえられた情報の質が著しく低かったと言えます。言い過ぎかな…。

情報と正しく向き合いたい

ネットはいろいろな情報がすぐ検索できるのは良いのですが、自分が信じたい、そう思いたい情報を集めてしまいがちです。広範囲にわたっていろいろ調べているつもりが自分が興味のある対象の狭い範囲をグルグルしているだけになっている場合もあります。あとは関連記事に目がいって脱線したまま最初の目的を忘れて時間だけを浪費することもけっこうあります。新聞や雑誌は全部は読みませんが、興味のある記事の隣に書いてある記事をついつい読んでしまったところ、意外とためになる内容だったりネットとは違う情報の触れ方ができます。新聞の場合は脱線したまま止めどなく関連記事を追いかけるようなことにはならないのが良いのかもしれません。ネットと新聞、どちらが良いというのはないですが向き合い方を考える必要性はありそうです。

「この情報が正しい」などと思い込まず、そして自分が取ってきやすい媒体からの情報だけにとらわれず、与えられた情報を正しく疑いながら向き合って、何か変だなと思ったらとことん調べて考えてみる。そうすれば情報そのものに惑わされることはかなり少なくなるはずです。与えられた情報を鵜呑みにした場合の失敗例として地図の読み取りの失敗をあげてみました。

でも、とことん調べるとかめんどくさいし疲れるよねー。

またとりとめのない文章になりましたが、とりあえず今回はこの辺でおしまいにします。

感染症と人類の関係〜その2〜

感染症と人類はどう付き合うべきなのか?この世の中からウィルスや細菌を完全になくすことができるとは思えません。

これまでの歴史上で人類が根絶できたのは天然痘だけです。

インフルエンザウィルスは根絶どころか進化が早いのでワクチンも毎年新しい型を準備して対応しています。

私たちはどのように感染症と対峙すべきなのか考えてみます。

開発と感染症拡大の関係について

感染症を考える論点として大事だと思うこととして、人間の開発行為との関係性があげられます。

森林を伐採して農地として開発していく過程で感染症が流行するということが繰り返されてきました。

ペストが14世紀にも大流行しましたが、この時の原因の一つとして考えられているのが農地開発のための開墾による森林伐採の影響です。

これによってネズミの天敵のワシやタカやキツネ、オオカミが急減しネズミの大発生を促したと考えられます。

また、都市部に生活者が集まるようになったが衛生環境が整備されていない時代だったので肉の解体屑や排泄物などが周囲に捨てられてネズミの格好の餌になっていました。

感染症の流行についてはブッシュミートと言われる食料にする野生動物が原因になっていることが多いとみられています。

それまで手をつけていなかった森林の伐採により奥深くにひっそり暮らしていた野生動物と人間が出会うことになります。

未知のウィルスの宿主となている野生動物を人間が食べた時にそのウィルスが人間にとって生命に危険を及ぼすほどの毒性を持っていた場合は第一号の感染者になってしまうということです。

エボラウィルスの自然宿主はオオコウモリではないかと言われていますし、ペストの自然宿主は齧歯類のマーモットと言われています。

アフリカ中南米で活動する科学者団体のエコヘルス連盟のジョナサン・エプスティン副会長は「新興感染症の75%は動物に起源があり森林破壊によって本来の生息地を追われた動物たちが人里に押し出されて病原体を拡散させるようになった」と警告しています。

農耕の開始から感染症との悩ましい共存も始まった

人類の歴史の初期から感染症は存在しておりマラリアは初期人類の間ですでに存在していた可能性が高く悪性マラリアを起こす原虫は500~700万年前にチンパンジーとヒトの祖先の間で分化した可能性が高いそうです。

しかし狩猟採集生活をしていたころの人類は感染症に悩まされてされていたかというと、意外とそうではありませんでした。

先史時代の人類における感染症は炭疽症とボツリヌス症がありますが両方ともヒトからヒトへの感染はなく獣肉食などによっておこります。

人類の感染症において転換点となったのは農耕の開始、定住、野生動物の家畜化でした。農耕によりそれまでより狭い面積に人口が多く集中するようになり、かつウィルスを持つ野生動物を家畜として飼育する環境が人類に多くの感染症をもたらす原因となりました。

天然痘は牛から、インフルエンザは鶏から人間にもたらされたウィルスが原因の感染症です。

さらに四大文明が現れて人口は増えていきましたが感染症のレパートリーも繁栄と共に増えて定着していきました。

それでも人類は繁栄を重ねて現代に至ったわけで人類全体というスケールで考えれば農耕生活から都市生活への移行によるメリットは感染症によるデメリットよりも大きかったということになります。

グローバル化が高度に進んだ現代、新しい感染症は一瞬にして世界全体に拡大します。

そう遠くない未来にペストのような強毒性で感染力の高い感染症が現れる可能性はあります。

これらの感染症にどのように対応していったらよいのか、パンドラの箱を開けてしまった人類は今後も苦慮し続けなければならないということです、私自身も苦悩する一人ということになりますが。

腹を決めて許容できる範囲で共存する

新型コロナの報道などを見ていて思うのは、検査を徹底して感染者を完全に隔離しようとする人は簡単に新型コロナウィルスを根絶できると思っているのか、ということ。

不思議に思いながら見ています。

例えば、インフルエンザの予防で毎年新しいワクチンを接種しなければならないのはインフルエンザが毎年変化していくからです。

簡単に根絶ができるのであればこのような対応にはなりません。

現在、人類はインフルエンザを根絶する術を持たないため付き合っている状態ということだと理解しています。

風邪の症状の原因となる4つのコロナウィルスも根絶はできていません。

よく、本当に風邪を治す薬ができたら大発明だという話を聞きますが、人体に対してそれほど毒性が強くない4つのコロナウィルスに対してさえ根本的な効果のある薬がないということです。

まあ、4つのコロナについては毒性が弱いからそんな薬を開発する必要性すらないのが本当のところだと思いますが。

人類の文明の進化と感染症は深い関わりがあり農耕が始まってから以降、感染症から逃れられない運命である限り、腹を決めてある程度の毒性の感染症とは共生をしていくしかないです。

というかこれまでそうしてきたし、これからもそうなんでしょう。

イヤイヤ、俺はウィルスやバイ菌と共生なんてイヤーっと言っても、もう遅い。今にでも誰にでもウィルスや菌が襲いかかる可能性はあります。

日本の新型コロナ騒動は科学や医学を無視した社会問題

新型コロナ根絶したいと言っても今すぐに、PCR検査と隔離で、は無理があります。

これを本気でやったらずっと、今日の感染者は〇〇人です!ひーっ怖いわーっ、て毎日繰り返すのでしょうから…そして、このやり方では経済活動も停滞したままになります。

検査を増やして陽性者を数えていったらそれはどんどん数字は大きくなるでしょうから。

このような弱い毒性と推測される新型コロナのためにまた緊急事態宣言を出すようなことをしても意味はないです。

これがペストなどであればまた違う対応になるのでしょうけど新型コロナは今の日本においては風邪のレベルです。

少なくとも毎年流行しているインフルエンザよりは毒性が弱いと言えます。

無症状や軽い症状の方を入院させるから医療関係者が疲弊しているのであって、本来は新型コロナは指定感染症の分類から外してクリニックなどでも普通に診察できるようにするべきです。

老いも若きも風邪と変わらない新型コロナにこれだけビビっているのは日本人が持っている死生観の問題でもあります。

ご飯を自分で食べられなくなったりしたら諸外国では延命処置はしないで自然に死を待ちます。

ロックダウン政策をとらなかったスウェーデンでは無駄な延命処置は虐待と考えられています。

いろいろ書きましたが、本当はかなりの数の日本人がこの日本の新型コロナ騒動はもう科学や医学の問題ではなくて社会的な問題だと気付いていると思っています。

会社で同部署の20代の女性が「コロナはもう別に怖くないんだけど風邪を普通にひけないのが怖い、ひいたら周りから何を言われるのかわからない」と言っていました、この言葉は印象に残りました。

もう今のこの状況は異常としか言いようがありません。

この空気感を変えたいと思って最近、新型コロナネタばかり書いてしまいますが、まあ、このブログでどうこう言っても効果がほぼないかな…新型コロナより弱いな。どうしてよいのかわかりません!

感染症と人類の関係〜その1〜

感染症と人類はどう付き合うべきなのか?まずは、これまでの歴史上で人類に厄災をもたらした感染症はどのような性質を持っていて、どれ程の被害を与えてきたかを調べていきます。

風邪と呼ばれるコロナウィルスは4種類存在する

コロナウィルスという名前は今回の新型コロナ騒動の前から聞いたことはあったのですが、あらためて調べてみました。https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/9303-coronavirus.html

最近、日本感染症研究所のページをすぐ頼る癖がついてしまいました。風邪と呼ばれている症状が出るのは4種類のコロナウィルスです。そして2002年に中国から発生したSARS-CoVと2012年に中東から発生したMERS-CoV、この2つは一時期かなり騒がれていました、病気の伝搬を抑えるために第2類感染症に分類されています。ちなみに風邪症状の原因となる4つのコロナウィルスについては感染症としての分類はされていません。伝搬を抑える必要性がないほど毒性が弱いということでしょう。

2類に分類されているSARSについては2002年11月に広東省深圳で最初の感染者が出てから2003年9月に収束するまでWHOによると、トロント(カナダ)シンガポール、ハノイ、香港、台湾など30カ国で8098人の感染者、774人の死亡者が確認されました。この数字をもとにすると致死率は9.6%となります。こちらも2類のMERSについてですが2012年暮れから2013年5月にかけてサウジアラビア、カタール、チュニジアなどの中東で発生しました。イギリスとフランスでも中東から帰国した人に接触した男性が感染しました。WHOによると2014年10月までに21カ国で855人の感染者が確認され死亡者は333人、致死率は38.9%となりました。いずれも現在は収束していますが、ただ眠っているだけなのか、またどこかで発生するかどうかは誰にもわかりません。

1類に分類される感染症の危険度

1類に分類される感染症はエボラ出血熱、ペスト、マールブルグ病、ラッサ熱などがあります。当然2類よりも危険な感染症がここに分類されているわけですがその危険度はどれほどなのかエボラ出血熱とペストについて取り上げます。

エボラ出血熱は1976年に初めての感染者が確認されています。東アフリカのスーダンで倉庫番として働いていた男性が39℃の発熱を訴えた後に全身から出血して死亡しています。市場で買ったコウモリの肉を食べたことが原因ではないかとみられています。続いてその家族や同僚も発症し感染は拡大、3ヶ月で284人が発病して151人が死亡しています。致死率は53%になり人々は震え上がりました。その後エボラ川を挟んだ反対側のコンゴ共和国に飛び火し最終的に318人が発病して280人が亡くなりました。致死率は88%に達し、この感染症がかなり強い毒性を持っていることが明らかになりました。

その後エボラ出血熱の集団感染は何度か繰り返されます。そして2014年に感染爆発が起こります。3月25日、アフリカ西部に位置するギニア南東部の4カ所で発生したという報告がWHOに入りました。それから1ヶ月後には感染者242人死亡者142人となっていました。感染源はその4ヶ月前に死亡した2歳の男の子でその姉と母親と祖母も高熱と激しい下痢や出血で亡くなっています。祖母の葬儀には多くの人が駆けつけて遺体を清めて最後のお別れをしたそうですがそこから感染は一気に拡大していきました。エボラウィルスは感染者の血液や排泄物を介して感染していくので遺体に触れることはとても感染のリスクが高い行為と言えます。2015年4月19日時点でギニア、隣国のリベリア、シオラレオネ、ナイジェリア、マリの総計で感染者27079人、死亡者10823人で死亡率40%に達しましたが5月には各国でエボラ終結宣言が出されました。

直近では2018年8月にコンゴ民主共和国のキブ地域においてアウトブレイクが発生。これはついこの間2020年6月25日ににイトゥリ州、北キブ州、南キブ州で人から人への感染は終了したという宣言が出されました。この間に3470例のエボラウィルス病の症例が報告がされ2287例が死亡しました。致死率は66%にのぼります。

やはり最もヤバい感染症ペスト

次にペストですが、こちらはさらに強烈です。ローマではマルクス・アウレリウス帝の時代、西暦120〜180年頃にペストの流行で300万人以上が死亡しその後も流行が続きました。543年、西ローマ帝国のユスティニアヌス帝の時代に、また流行が発生しました。ビザンチンの歴史家プロコピウスの「戦史」にはその惨状が克明に記録されています。首都コンスタンティノープルでは毎日5000人の死者が出て市の人口の4割が失われたといいます。

中国では1331年の元王朝時代に流行が始まり1334年には河北省で人口の9割に相当する推定500万人の死者が出ました。ペスト菌はシルクロードの要衝である天山山脈のキルギス北西部のイシククル湖周辺に定着していたらしいです。このイシククル湖を通過する隊商や軍隊を通じてパレスチナ、シリアなどの中東さらにチュニスなど北アフリカに広がり、1348年にはヨーロッパ全域まで感染は広がりました。アメリカのウィリアム・アンド・メリー大学のフィリップ・デイリーダーによると、欧州の人口の3から4割に相当する2500万人から3000万人が死亡し、世界の総死者は7500万人から2億人と推定されています。とくにフランス南部からスペインにかけては8割の人口が失われました。

その後も断続的に流行は発生し第2波は1663年にオランダ1665年にロンドンで流行し市民の1/4が死亡しました。1666年にロンドンは住宅の85%を失う大火にみまわれ、その後の建築物はレンガや石造が義務付けられました。その結果ネズミの生息場所が減少してペストも収束に向かっていきました。しかし1720年にフランスのマルセイユで流行が発生し10万人が死亡しています。第3波は1894年雲南省で始まり香港に飛び火、そこから海上ルートで太平洋一帯に感染が拡大しました。日本に侵入したのは1899年神戸港に入港した台湾船から広がり27年間に流行を繰り返し2906人が発病し2215人が死亡しています。

ペストの一般的な病型は腺ペストと呼ばれていて全身の倦怠感と高熱の後、腋下や鼠頸部のリンパ腺の腫脹がおこります。ペスト菌による毒素で敗血症をおこし全身に紫斑が現れます。これが黒死病とも言われる所以です。抗生物質がない時代、発症した者のうち死亡する者の数は50%を超えました。もうひとつの病型は肺ペストと呼ばれリンパ腺の腫脹や紫斑は出ないが血痰や喀血の症状が出て飛沫感染します。なにも治療を施さない場合での致死率はほぼ100%です。

そして日本における新型コロナは…

東洋経済ONLINEを確認します。7/30日の数値をみていきます。日本全国で新規死亡者数2名…累計1005名。新規重症者数マイナス3名…回復した方が多かったということですね、累計87名。エボラやペストとの落差が激しくて肩透かしをくったような気持ちになります。で、陽性者数は1日で1297名で増えているとのことですが検査数を増やせばそれは増えるでしょうとしか言えません。私には恐怖を煽るために日を追うごとに数値を増やしているように見えていますが、皆さんはどう思うでしょうか。あくまで観測値としてある程度の正確さがあって、かつ重要なのは死者数及び重症者数だと私は考えています。陽性者数や感染者数というのは無症状の方がかなりいる限り正確につかむことはできません。なぜなら無症状の方は通常は検査すら受けませんから陽性者としても感染者としても数字として表に出てくることはないからです。また、陽性者と言っても曝露しているだけでウィルスが細胞内に侵入していない状態であれば感染しているとは言えないという考え方もあるようなので陽性者がすなわち感染者のような扱いも考え直さなければいけないかもしれません。

もっと言ってしまうと、陽性者数あるいは感染者数が増えたとしても無症状や鼻風邪程度の軽い症状であればいくら増えてもかまわないはずです。その場合は先ほど述べた風邪の症状の原因となる、感染症に分類されてもいない4種類のコロナと同じです。毒性が弱いのであれば感染した結果、抗体を持つ人が多くなった方が良いと考えることもできます。ウィズエボラやウィズペストはちょっとできませんが、ウィズコロナはできるのではないでしょうか。

まだ話したいことがありますが、長くなってしまったので次回、同テーマでもう少しお付き合いいただければと…思っております!

新型コロナを再考察

ここ最近、感染者数が増えているという報道をよく耳にします。では、死者数や重傷者数はどのように推移しているのか?自粛を強化した場合、これ以上経済への影響が大きくなることについて問題はないのか?

なんのためのPCR検査なのか

感染者数という数字を取り上げて何かの行動の基準にすることに意味があるのか考え込んでしまいます。感染者と言っても無症状の人も多く存在しています。ということは普通に過ごしている人でも感染している可能性があるということですから、たまたまPCR検査することになって陽性だった人数を見て一喜一憂する意味があるのかわかりません。結局、感染者数について正確に把握することは困難だろうと私は考えています。また、検査が増えれば見かけ上は感染者数が増えたようになるのは当たり前の気もしますから過去の感染者数と現在の感染者数を同列に並べて騒ぎたてることにも違和感が拭えません。

本来は症状が出た人の病気の原因を調べるためのPCR検査のはずです。検査というのは通常は病気の原因を特定する目的で行われるものですが、現在行われているPCR検査はクラスター発生の疑いがある新宿の夜の町の若者に対しても実施して陽性なら無症状でも隔離しろ、となるのですからこれは病気の原因の特定が目的ではなく感染者のあぶり出しが目的になっています。こんなことをしていったい何の意味があるのか、ただ人の自由を奪いたいのか、差別したいのか、その動機について考えれば考えるほどよくわからなくなってきます。陽性であっても無症状であれば患者ではないですから治療もなにもない、なにもできないし、しないのですから検査の意味って何?という話なのです。症状が出ている方に対してその原因の特定をして治療を施すためという目的以外でのPCR検査はすべきではないはずです。

もしPCR検査で完璧に感染者をあぶり出したければ、まずやらなければならないことは全国民一斉に同時検査です。全国民に検査キットかなにか配布してこの日のこの時間に「いっせーのーせっ」で唾液を採取する、そしてすぐに検査機関に検体を提出、すでにこれが現実的に不可能です。このような検査を全国民が同時にできるわけがないです、実施するとしてもお金がいくらかかるのか。それに検査結果が出るまでに数日はかかるようですがその間に感染する可能性もある、陽性という結果についても検査の確度は70%程度とのこと。一斉検査が実現したとしてもさらにこれらの問題がある限り感染者を完璧にあぶり出して隔離するなんて到底無理な話だと、普通に考えればわかるはずです。

さらに馬鹿らしいのがPCR検査をして陰性という結果が出たところでそれが感染していないことの証明にはならないということです。千葉県の佐倉病院の先生のコメントがとても参考になります。https://www.lab.toho-u.ac.jp/med/sakura/respiratology/patient/covid-19kensa.html

だとしたら、なぜ必死に国民全てのPCR検査実施を叫んでいる人がいるのか意味がわからないのです。

無症状や軽症の人まで入院の措置をとっていたら病床数が足りなくなるのは当たり前です。癌患者など本当に治療が必要な方のためにベッドを使うべきで無症状や軽症の陽性者など入院させても病院側からしても、入院させられる本人にもなんのメリットもありません。

ここ最近死者数は1日に数人いるかどうかだが…

では、ここ最近の死亡者数を見てまみます。 

東洋経済ONLINEより

東洋経済ONLINEのグラフを参考にします。7月に入ってからは1日に数名の死亡者がいるかいないかという状況です、これは全国の統計です。7/10から7/13までと7/16から7/19までについては死亡者数0です。7月に入ってから22日までの死者数は16名です。これを見て私なんかは、いや、これもうただの風邪でしょ…と思っていますが皆さんはどう思うでしょうか。ちなみに死亡者数のピークは5/8の49名です、そして7/22までの累計で989人です。死亡者数の値は人口比で考えてアメリカは日本の50倍というレベルです。よって、あくまで「日本においては」ただの風邪ではないかという話です。

インフルエンザとの比較もしておきます。日本の東京や大阪含む21都市におけるインフルエンザによる死亡者数は2019年の12月から2020年の2月まで毎週400人を超えていました。3月もほとんどの週で400人程度の死亡者数です。これは新型コロナの騒ぎと並行して起きていたことですが、こちらはスルーされて報道はほとんどされていないのではないでしょうか。

国立感染症研究所のHPより

例年インフルエンザによる関連死亡者数10000人程度、直接的には3000人程度の死亡者数がありながら経済活動は止めず普通に暮らしてきたのですから、なぜ現在1000人程度の死亡者数の新型コロナでここまでの自粛が必要なのか疑問に思っています。ワクチンがないから怖いのだという意見はおかしいです。なぜならインフルエンザはワクチンがあっても新型コロナより死亡者数は多いのですから。

経済活動も命を育む大事なものであるということ、もっと人生を楽しむべき

今回なぜこのような文章を書いたか、その理由は甲子園もできない、遠足も行けない、運動会も中止、連休なのに東京の人間は地方に来るな、マスクしてなければ警察みたいなオバさんににらまれる、経済活動は停滞してこれから長くて深刻な不況が続く…子供たちや若い人たちがかわいそうでしょ!いや若くなくても人生をもっと楽しみたい人に対して酷い仕打ちでしょ!とかなりの憤りを感じているからです。

甲子園はできたのでは?遠足だって運動会だって中止する必要なんてないのでは?東京の人は地方に来るなというのはただの差別でしょ、マスクすることを人に強制するのもどうかしてる、非常事態宣言なんて日本で出す必要性はあったのか、少なくとも5/6以降の非常事態の延期は必要なかったのではないか?経済をここまで壊さなくてもよかったのではないか?経済活動と人の命を天秤にかけるような議論を見かけますが経済活動も人の命を育むものであり経済活動を重視するのがダメだという意見は間違っています。

数字を見る限り、この新型コロナは感染力も弱く毒性も弱いということになるのではないでしょうか。今現在問題なのはむしろ、人間の、というか日本人の気持ちの部分だと私は思っています。同調圧力というものがこれほどまでに強く働いて継続してしまうとは…。どうすればいいものか1人で悩んでもしょうがないと言えばしょうがないのですが。

建築現場にどこまでAIが入り込めるのか?素人なりに考えてみる

建築設備の仕事をしていますが建築現場の仕事にどれくらいAIが入り込んで来ることができるのかよくわからない…。これからの時代AIが人間の仕事を奪うというのはわかるけど、いつまでに、どうなるのかいろいろ本を読みながらAIに関しては素人ながら考えてみました。

AIは建築図や設備図を読み取って見積ができるか?

昨今よく話題になるAI、現在の技術では人間と同じように考えて行動できるようなレベルのAIは実現できていません。しかし、AIには得意分野はあります。その得意分野においては人間の能力をしのぐ効果を発揮しています。

ディープラーニングの登場によって最近はAIによる画像処理技術(パターン認識)はかなりの進化を遂げました。と言っても人間とまったく同じように画像を認識できるわけではありません。でも、ある写真の中に存在する椅子やテーブルや猫や犬など特定の画像を探し出して認識するのは得意です。CTやMRIの画像をスキャンして疾患があるかどうかを判断するという作業は日々サンプル画像を得ることが可能で膨大なデータが蓄積されているためディープラーニングに向いておりAIは自律的に学習して仕事の精度を上げていくことができます。画像診断の仕事はAIが担う一歩手前まで来ているようです。ただしAIはなぜその画像を疾患があると判断したのか、その理由を説明することはできません。画像を何か「意味」があるものとして認識するということはないからです。なので医療の現場においてはあくまで補助的にAIに診断の手伝いをしてもらうという形をとり診断の最終判断は人間がして責任については人間が持つということになると思われます。

ここまでの話を参考に考えますが、では、ディープラーニングをすることによってAIが建築図や設備図を読み取れるようになるかどうか。建築図や設備図を何万枚とAIに読み取らせてもその図面全体の「意味」を読み取ることは現在のAIにはできません。でも、見積に必要な拾いであればかなりできるかもしれません。実際にCADで描いた図面はデータの入力をきっちりしながら描けば壁の面積や配管長さなどデータとしてすぐに出せます、これはAIと呼べるものとは違いますが。

ちなみに入札図面はCAD データではもらえません、なぜなら入札時点で図面データをいじられたくないからです。勝手に変更された図面が受注業者が決定する前の段階で出回ることはあってはならないので防衛手段としてデータを渡すということはされていません。なので、どうしても紙の図面あるいはPDFなどいじれないデータで拾いをすることになります。

よって、見積依頼でもらった図面をスキャンしたら配管長さや器具の個数などある程度拾って自動で見積してくれるAIがあったらいいなということになります。実際にある程度壁や床の面積を拾ってくれるソフトは今もあります。でも、これはAIではなく人間がかなり手をくだして成り立つというレベルのもので、そこまで劇的な作業効率のアップは感じません。

図面にはけっこう曖昧な表現があります。また、印刷がかすれていただけでも図面を読み取れないという事態が発生しそうです。AIが読み取れるように人間が図面を描き直すとしたら、それは効率が逆にダウンしていることになります。あとは図面上のこのシンボルが何なのかなど部分的にわかったとしても全体の意味がわからないとしたら結局、人間がこの図面は建築の平面図だよ、設備の給水設備図だよ、みたいなインプットからいちいちすることになるかもしれない。それなら最初から人間がやるのと変わらないじゃん、という話になりかねない。AIが人間と同レベルで図面の意味を理解して見積まですることは現在は難しそうです。

墨出し作業ができるロボットはすでに存在する

現場で墨出しという作業があります。これは例えば1/100スケールで描かれた図面があるとして、それを実寸で現場の床や壁などに描いていく作業になります、工程の初期段階においてかなり重要な作業になります。もう1年以上前ですが2019年の4月17日に竹中工務店から墨出しロボット実用化のめどがついたという情報がリリースされました。https://www.takenaka.co.jp/news/2019/04/03/index.html

OAフロアの墨出しができるとのことで、OAフロアの支持材の位置を現場の床にプロットしていくという作業ができる、というところまではできるようです。

では、店舗の内装のような複雑な間取りの墨出しをロボット単独でできるようになるのかどうかということです。OAフロアは決まった形のものを敷き詰めるイメージですから墨出しとしては比較的単純な作業になります。でも、店舗の内装はかなり複雑です。アールのついた壁がデザインされていることもある、図面で描かれた内容に従って部屋の大きさを確保しようと思っても躯体の歪みがあって微妙な調整が必要になったりします。お客様の要望をかなえるためにはどう墨を出すのがベストなのか悩む現場監督を何度も見てきました。AI技術を駆使してこれらの仕事はできないのか、と思いますが墨出しロボットがお客様の要望まで考慮しながら墨出しをすることはありません。そのような意思をAIは持っていませんし、それをインプットすることは現在の技術では不可能です。できたとしても遠い未来の話になります。そもそもAI自体が意志を持つことはありません。あくまでAIは人間が作り出した道具であってそれ以上でもそれ以下でもありません。

それでも単純な作業はできるところまで来ているとしたら、基準となる墨をザックリ出してもらうという補助的な仕事まではしてもらって複雑な部分や微妙な調整が必要になる部分は人間が行うという使い方をしていけば良いのかもしれません。うまく仕事の棲み分けをしていけば効率は上がる可能性がかなりある、だからスーパーゼネコンも開発に力を注いでいるのだと思います。

建築現場の作業は見た目よりかなり複雑だAIはこなせるのか?

セキスイハイムが住宅のユニット工法の組み立て作業においてにロボットを取り入れています。全ての作業をロボットでできるようになったわけではないようですが効率は上がった、そこにかけていた時間を付加価値の高い作業に振り替えることができるようになったとのこと。また、三和シャッターは壁などに使用するALC(軽量気泡コンクリート)にかわる施工支援ロボットで施工可能な耐火間仕切用耐火パネルを売り出している。これらは年々、現場作業従事者が減っていく中で人材不足を補うための解決策として開発されています。私など状況をただ手をこまねいて見ているだけの人間からは素晴らしいアイデアだと感心してしまいます。

一方、AIというものが現場に取り入れられているのかどうか、です。それができている状態とはAIを頭部に装備したヒューマノイドが人間や図面の指示に従って自立して複雑な現場作業をこなしている、そういうことになりそうですがこれは現在の状態からしたら到底無理なレベルの話だとわかります。

AIという言葉を聞くと、私などは人間に変わってなんでもできるものを想像してしまっていましたがAIに関連する本を何冊か読むと、それは妄想に過ぎないことがわかります。「東ロボくん」という東京大学受験に挑戦するAIを開発するプロジェクトを率いる新井紀子という方の著書に人間の知能と同等の機能を果たす人工知能はできるかどうかについての記述があります。コンピューターがしているのは四則演算なので人工知能を実現するには人間の知的活動を四則演算で表現するか、それができていると感じる程度に近づけることだとあります。そしてそれができるかどうかについては明確に、遠い未来はともかく近未来にそれができることはないと述べています。それはなぜなのか知りたい方はは「AI vs教科書が読めない子供たち」を読んでいただければと思います。

ということで結局、AIが現場で大活躍というのはただの妄想。ですが人間に変わって様々な作業の補助をしてくれる可能性はかなりある。建設業においては人手不足を補う一つの方法として真剣に取組んでいかなければならないのだろうなと、そう思います。

ポカホンタスからの大陸開拓のリアルについて

前回ポカホンタスを観た感想を書き始めたらアメリカ大陸の発見以降、西洋人がどのようにその勢力を世界中に拡大していったのかという話に脱線しました。そのまま話が長くなってしまったので一旦中断、今回はその続きです、もうしばらくお付き合いください。

ポカホンタスがいたのは17世紀初頭

で、ようやくポカホンタスが登場する17世紀の初頭1610年頃の話です。場所はアメリカ大陸のヴァージニア植民地での話になりますが現実においては、ポカホンタスはイギリス人に捕われて人質として過ごしていました。そしてキリスト教へ改宗しイギリス人と結婚したそうです。この結婚は一時的にポウハタン族とイギリス人入植者との間に平和をもたらしたようで美談として現在も語られているようです。この話がポカホンタスの映画の元ネタということだと思います。この辺の話はWikipediaに書いてある話を参考にしました。

ポカホンタスはイギリスに来て夫のジョン・ロルフと共に当時の王室のジェームズ1世に謁見して1年間程度イギリスに住んでいたようです。またアメリカに帰る途中の船で病となり23歳という若さで亡くなってしまいます。天然痘、結核などと言われていますが資料により異なるようです。おそらく西洋人からの感染によるものと思われます。抗体を持たない新大陸の先住民は天然痘やチフスなど西洋人が持っていた感染症で死んでしまう確率は高かったものと思われます。

17世期の初頭はまだ入植者の数がそこまで多くなかったのか、イギリス人入植者を受け入れようと食糧を分け与えるるなどインディアン側の譲歩もあったようなのでポカホンタスのような美談(だいぶ美化されているのかもしれませんが)が生まれる素地はあったようです。

しかし、西洋人はインディアンを人質にとって食糧を要求するなどせっかくの好意を無駄にするようなこともしたようです。仁義というものがまったく通用しない仁義なき闘いですね…こういう負のエピソードは隠されてしまいがちです、全ての西洋人がそうではなかったとも思いますが。

植民地の拡大とアメリカの独立

そして、時は過ぎて18世紀。フランス人と争うようにアメリカ大陸への入植者を増やしていくイギリス人。ヴァージニアを皮切りに現地の先住民を虐殺、略奪し奴隷化していきます。カロライナではインディアン奴隷売買が一大産業となり盛んに行われるようになりました。イギリスはフランスとのアメリカ大陸における利権獲得のための植民地戦争に勝利します。世界中の植民地から得た潤沢な利益によりイギリスは技術革新を成し遂げ産業革命に至ります。

この産業革命は大量生産、大量消費の現代社会の形成の発端となりましたが、それまでよりもさらに多くの資源と製品消費地を必要とするようになります。イギリスはフランスとの植民地戦争には勝利しましたが多額の戦費が財政を圧迫します。このあおりを受けてアメリカ植民地への課税の増税が決まりましたが現地のアメリカ植民地の入植者達はこれを拒否、アメリカ独立戦争が起こります。そして1776年にアメリカは独立宣言をしました。

この頃、アフリカからの南北アメリカへの奴隷貿易が盛んに行われていました。船底にすし詰め状態で奴隷を乗せ糞尿はそのまま垂れ流しの劣悪な環境でした。疫病が流行って亡くなってしまう奴隷もいましたが亡骸は海に捨てられ、船主は積荷の保険金を保険会社に請求するだけでした。また、独立国となったアメリカ合衆国はインディアン保護のために300を超える条約や協定を結びましたが、現地の入植者達はこれをほとんどは守ることはなく民族の破壊は続きました。

19世紀、1820〜30年代に合衆国最高裁判所主席判事ジョン・マーシャルは合衆国憲法に定められた自然権を根拠にインディアンの土地権と自治の資格をある程度認める判決を出しました。しかし当時のジャクソン大統領はこの判決を拒否し、ジョン・マーシャルが判決したのだから彼に判決の執行をさせてみようではないかとうそぶきました。さらにインディアン強制移住法が制定されインディアンは人間の住めないところと言われたミシシッピーの西の保留地へ移住させられます。

こうあれば良かったという理想形

フロンティアの男達はそんな人の住めないと言われている土地でさえ金鉱が発見されるとすぐに奪い取りました。彼らはインディアンの土地を奪って西へ西へ進む、これこそ「マニュフェスト・ディスティニー」つまり天から与えられた明白な使命だと言ってこの行為を正当化しました。

大陸の開拓の歴史をざっくり書きましたが、これらの歴史をある程度知ったうえでポカホンタスを観たときに何を感じるでしょうか。インディアンがイギリス人をはじめとする西洋人に破滅の道をたどらされたことは間違いありません。

ポカホンタスの物語りでは殺されそうになる西洋人のジョン・スミスをポカホンタスが身を投げ打って守り、ポウハタン族の首長は西洋人との争いを避ける決断をしました。そして、西洋人はポウハタン族の土地から去っていきます。

しかし、現実において西洋人はヴァージニアから去っていません。ヴァージニアを起点にインディアンの土地を徹底的に奪い、民族を破壊してきましたから、この物語においてはせめて、こうあれば良かったという理想形を描いたのかもしれません。

ジョン・スミスはポカホンタスに一緒にイギリスにくるようお願いしますが、ポカホンタスはその地に残ると言います。ジョン・スミスとの恋愛よりも家族やその土地とのつながりを優先しています。

これは男女の恋愛ストーリーとしてはハッピーエンドではありませんがリアリティは感じます。ポカホンタスがイギリスに行って幸せに暮らしましたとさ、とはならないしそれをやってしまったら歴史をある程度知っていたらシラけるだけでしょう。そんな(西洋人にとって)都合の良い話ってあるの?ということです。

ポカホンタス2というのもあるようですが、まだ観ていません。ポカホンタスがイギリスに行くというストーリーのようで、これ観てしまったらせっかくの好印象が壊れそうな気がしていますがどうなのでしょうか。また観てしまったら感想書くかもしれません、そしてまた長くなるかも…。

ポカホンタスはディズニー映画の中でもシリアス度MAX

子供がテレビばかり見ています、ステイホームを無駄に満喫している様子ですが、さすがに見過ぎでしょと思いつつ子供が見ているテレビをその後ろから見てしまうという…。

リアルに描かれる登場人物達

先日、ポカホンタスを見ちゃいました。これ25年前の1995年の作品です。ディズニー映画というと登場人物はディフォルメ化されていて頭が大きくてかつ目が大きく描かれている場合が多く、そういう描き方をした方がキャラクターが可愛いく見えるし、子供たちも親近感を抱くからそうしているのだと思います、これ私のまったくの予想でしかないのですが。

 ポカホンタスに出てくる登場人物は他のディズニー映画と比較してディフォルメ化の度合いが低いと感じました。現実の人間と同様の7から8頭身程度でしょうか、頭を大きめにディフォルメはしていない様子です。目もそこまで大きくはなく成人の大人は大人として、人間そのままの形で描かれています。ディズニー映画では必ず出てくる動物たちですが、これだけはいつものディズニー映画と同じようにディフォルメされていてアライグマ?とハチドリとパグ犬?はかわいい感じになってました。やけにリアルに描かれた人間とのギャップに最初は若干の違和感を覚えましたがすぐ慣れました。

インディアンの女の子が主役で恋する相手が西洋の白人という設定の時点で何も起こらないはずがない。アメリカ大陸の美しい自然と若くて綺麗なポカホンタスが描写される一方、イギリスからの入植者が海を渡る様子も描かれます。インディアンという先住民族を殺し、制圧して現在のアメリカが成り立っているという歴史を知っているとしたら物語の序盤から不穏な空気しか感じない展開です。ディズニー映画の中でこんなに不穏な空気感を醸し出している作品は他にはないはず。インディアンと西洋人の恋愛を描くこと自体、ディズニーにとってもかなりリスクの高い仕事であったことは間違いないはずです。

 イギリス人の入植者達がポウハタン族の土地に入り込んで金の採掘を始める、実際は金などその土地では出ないのに。当然、ポウハタン族の男達はイギリス人の偵察を始める。そして、あいつらは人の土地で何をしているんだ、けしからん!となる。

 一方、イギリス人入植者の中でも好奇心旺盛で仲間思いで人望の厚いジョン・スミスは単独行動で新しい土地の自然を満喫しているところでポカホンタスと出会います。そしてお互いに惹かれあっていきます…。この物語は実話に基づいているらしいですが、この出会いのシーンはフィクションだなと思いました。ちょっとネットで調べたら、ジョン・スミスがアメリカ大陸に着いた頃ポカホンタスはまだ10歳程度だったようなので映画で描かれたようなロマンスは実際には無かったようですね。

 そして、いろいろあった後、ポカホンタスの婚約者ココアムがジョン・スミスとポカホンタスが熱くキスしているのを見てしまい発狂→ジョンスミスに襲い掛かる→それをさらに外側から見ていたジョン・スミスの友達が銃で撃つ→ココアムに弾当たる→ココアム倒れる→ココアム死んじゃう、のですがこの一連のシーンは見応えかなりあります。普通のディズニー映画だったらキスシーンは主人公が幸せを掴んだ象徴となっていることが多いですが、ポカホンタスではキスシーンからのこの一連のシリアスな展開です。ココアムが嫉妬心に駆られて木陰から飛び出して襲いかかるシーンはアニメとは思えないリアリズムを感じます。逆にアニメだからあのような象徴的なシーンに仕上げることができたのかもしれません。あれを実写で役者に演じてもらっても、あのようなシーンにはならないはず。

大陸開拓のリアル

劇中に出てくるスペイン人は黄金で大儲けをしたという話しですが、中南米に入り込んだスペイン人のコルテスとピサロの話しなのかなと思いました。西洋人によるアメリカ先住民インディオに対する侵略と言える話しです。概要を紹介しておきます。

1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見して以降、1521年にはスペイン人のコルテスによってアステカ帝国が滅ぼされました。当初はアステカ帝国の兵力が圧倒的に上回っておりスペイン軍は敗走寸前でしたがいつまでたってもアステカ軍による最後の総攻撃が始まらない。時間を稼ぐことでコルテスは体勢を立て直しアステカの首都テノチティトラン(現在のメキシコ市)へ乗り込んだときに見たものは何者かにすでに襲われ壊滅した街の様子でした。スペイン人が持ち込んだ天然痘による死者で街が埋め尽くされていたのです。こうしてあっけなくアステカ帝国は崩壊し、コルテスは膨大な財宝を略奪することに成功しました。

1533年にこちらもスペイン人ですが、ピサロによってインカ帝国が襲われました。中米、アステカ帝国から入り込んだ天然痘は1525~1526年までには南米まで達しておりピサロがインカ帝国に入ったころにはその人口の急減により政治基盤は崩壊寸前の状態だったようです。従軍司祭バルデルベはインカ王のアタワルパにキリスト教への改宗を求めるが王はこれを拒否します。するとバルデルベはピサロに「あのような者たちと議論しても仕方ない、やっつけなさい。ピサロとその兵士はこれからの流血に対するいかなる責めからも神の名において免ぜられる。」と叫びました。そしてインカ帝国の貴族を含む数千人が殺害され、アタワルパは捕らえられました。アタワルパはピサロへ黄金の財宝を渡す代わりに釈放を願い出ます。そして財宝がピサロの元へ運び込まれましたがピサロは約束を守らず、釈放はしませんでした。バルデルベが正義の名による裁判というもので彼を裁いた結果、一夫多妻・人民殺害等の罪という訳のわからない罪名による死刑が言い渡されてしまいます。火あぶりに処すということに決まりましたがバルデルベ司祭はキリスト教に改宗するのであれば苦痛の少ない絞首刑にするということで最終的にアタワルパはキリスト教に改宗したその後すぐに絞首刑に処せられます。その後はもうスペイン人のやりたい放題で、天然痘やチフスが免疫を持たないインカ帝国の民の間で大流行して多くの人が亡くなる中で生き残った民は金鉱を掘る作業に奴隷として従事させられました。その重労働によってさらに多くの人が命を落としていきました。

以上が過去の歴史においてスペイン人が中南米で行ったことで当時、現地に赴いてこれらの行為を見たスペイン人の司教ラス・カサスが問題として50年にわたり現地人の窮状を訴え続けていました。

ポカホンタスから話が脱線してしまい、しかも長くなりそうなので一旦ここで今回はおしまいにして次のブログでアメリカの大陸の開拓とポカホンタスの実話も絡めて話せればと思います。

新型コロナ騒動を考察してみる

グラフを見ながら現実を直視

各国の死者数と日本のそれのを見ていていろいろ思うことがあります。

各国の百万人あたり死者数推移
6/7時点の百万人あたり死者数

英オックスフォード大学が運営するOur World In Dataから提供されている新型コロナに関する統計情報を参考にします。各国の死者数の推移を調べてみました。死者数をそのまま比較しても人口の違いがあり比率がわかりにくいため百万人あたりの死者数の推移のグラフで検証します。

United Kingdom=イギリスは100万人あたりの死者数6/7の時点で596.07人です。これに対して日本は7.24人です。推移のグラフを見てもわかるように日本の数値は他国と比較して圧倒的に少ないためグラフの形が地を這うミミズのようになってしまっているという…。3月の中旬から下旬にかけてアメリカやイタリアの死者がうなぎ上りで増加していた時は、これはもしかして日本もヤバいのではないかと一瞬思いましたが欧米の国とグラフの傾きがまったく違うのを見て4月の頭頃には、ちょっと日本は違うなと考え直しました。多くの人が同じように気付いたはずだと思ったのですが現実は違いました。世間の多くの方はロックダウンや緊急事態宣言を求めました。そして4/7から5/25まで緊急事態宣言は続き経済活動は急激にブレーキをかけられ解除後もまだ自粛ムードがかなり残る中、多くの企業が倒産しており、生き残った企業も前年比大幅な業績ダウン、今後さらにこの影響による負の連鎖が続きます。深刻な事態が浮き彫りになるのはこれからだと思っています。たぶん夏のボーナスはコロナ前の成績で判断なので出る企業はあると思いますが冬のボーナスを出せる企業は減ると思っています。

スウェーデンの結果から考えられること

スウェーデンは緩和策をとってロックダウンは実施せず、50人以上のイベントの禁止や高齢者施設への訪問の禁止などの決まり事以外は市民の判断での感染防止策に任せて、ほぼ普段通りの生活をしながら集団免疫を獲得して収束を目指すという方法を採用した唯一の国です。死者数は百万人あたり6/7の時点で461.02人と欧米の中でも多めの数値となっていますがロックダウンという抑圧策をとったイギリスなどの国との死者数のグラフの形が相似形となっていることからロックダウンをする必要性は無かったのではないかということも言われています。

これを認めてしまった場合にロックダウンや緊急事態宣言発令などの政策をとった国の指導者はそれによって起こった景気後退の責任を取らなければならない可能性もあるし、これだけ国民にステイホームの対応を要請して我慢を強いておいて、今更意味がなかったとはなかなか言えないはずですがグラフを見る限り、ロックダウンや緊急事態宣言によるさまざまな活動自粛の有効性がどれほどあったのか、経済的な損失をこれほどまでに拡大して実施するだけの意義があったかの検証は必要と思われます。

新型コロナの恐怖だけをむやみに煽るメディアが多いと感じています。結局は自分で情報を探して自分で考えて判断するしかないのですが、あまりにも情緒に流された意見が多すぎる気はしています。NHKのニュースや民放のワイドショーなどを見ていると真実や事実を追及するスタンスよりも、ただ世間の論調に無難に合わせていい顔したいだけの人たちが番組を作っているように見えてしまいます、私には。

日本においては新型コロナによる死者は圧倒的に少なくインフルエンザよりも感染力、毒性ともに弱いというのが現実ではないでしょうか。また、スウェーデンの結果からロックダウンや緊急事態宣言の有効性まで問われているという状況です。

なので、自粛ムードはまだ残っていますが、個人的にはもう気にせず普段通りの生活をすればよいと思っています。普通に会社帰りに居酒屋も行けばいいし、キャバクラも行けばいい、パチンコも行きたい人は行けばいい、サーフィンもゴルフも普通に行けるはずです。ネックになっているのはこの自粛をまだ強要しようとする空気感です。これをなんとか変えられないものかと思っていますが時間が解決してくれるのを待つしかないのでしょうか。

Let it beよりLet it goは厳しいよね

白雪姫からアナ雪への飛躍

最近小学校1年生の子供がずっと家にいます。それはなぜか?小学校が休校だからです。ようやく6月から小学校も始まるようですがクラスを3つの班に分けて週2で通うようにして密を避けるとのこと…まだ通常に戻るまでに時間がかかりそうです。

で、子供が家にいる時何をしているか?うちの子供の場合はかなりの時間テレビを見ています。放っておけば3時間くらいずっと見ているので、そんなに見てはダメだとたまに怒りますが怒るとイジけたりします。アニメが大好きでドラえもんとクレヨンしんちゃんは鉄板です。土曜日が待ち遠しくてたまらないようです。アニメの映画もかなり見ていますが一時期繰り返し見ていたのが「アナと雪の女王」です。今も思い出したようにアナ雪を見始めることがあります。特に興味も無かったので一緒に見ることもなかったのですが、あまりにも何度も子供が見ていたので、最初はぶつ切りで目に入っていたストーリーがそのうちつながって全体がわかるようになりました。

思ったのはこれはおもしろい映画だなと、売れるのもわかる気がしました。ディズニー映画だと白雪姫とかシンデレラは有名というか知らない人はいないと思いますが女の子が王子様に見染められて幸せになるというストーリーで、うがった見方かもしれませんが男の権威に女が取り入るということで幸せを掴んでいます、夢ぶち壊し、ストーリー端折りすぎですいません。

アナ雪で出てくる王子様、ハンス王子は実は悪役という設定で、アナを助けるクリストフという男も脇役気味で、真実の愛で雪が溶ける話もクリストフとの愛で…というわけではなく姉のエルサとの愛によって成されます。序盤においては主役級の目立ちかたをするハンス王子が実は悪役というのは最初に見たときには衝撃的でした。

もっと言ってしまうとアナ雪においては男はアナとエルサの引き立たせ役でしかない、男に媚びることもないキャラが男からちょっと助けてもらいながら冒険するし、自分の殻を破って覚醒しちゃったりする。これは現代の女の子による女の子のための物語なんだと、そう思います。もう男に媚びる女性像は古い、権力や容姿で男を選ぶことはない、女の子は女の子の意思で自由に人生の選択をして強く生きていくんだという、そういうメッセージが込められているのではないでしょうか。白雪姫やシンデラの時代からの飛躍はかなりのものです。

ありのままの自分とは

劇中でエルサが自分自身の能力を解放する象徴的なシーンでLet it goという歌を歌います。これ、うちの子も大好きでお風呂とかで大声で歌い始めたりします、歌詞はめちゃくちゃですが…。

日本語バージョンだと「ありのままで」という副題がついていますがよくよく歌詞を聞いてみると、このままじゃダメなんだという動機からのありのままの自分になるという、そういう歌詞です。これけっこう実はツラい状況で現在の自分を受け入れてはおらず、本当の自分は環境などに押さえ込まれてしまって全ては出せていない、ということです。現代の女性の状況を象徴しているようにも感じます。

ビートルズの名曲Let it beもありのままという意味ですが、こちらは今のままの自分でもいいんじゃない?そんなに無理しなくて、というニュアンスが強いと思います。悟りの境地というかいろいろあるけどまあ、今のこの状況を受け入れてやっていきましょうという感じです。

キリスト教徒であるポール・マッカートニーが聖母マリア様からいただいた言葉として歌っていますから、かなり宗教感が入り込んだ厳格ささえ感じてしまう歌です。個人的にはやはりビートルズのLet it beの方が好きかな。なんか聞いていると落ち着きますし…小さい頃母さんがよくレコードで聴いてたのを思い出します。

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom

Let it be

マリア様は僕のところに来て

素晴らしい言葉を言ってくれたんだ

ありのままでいいんだよって

なんか結局ビートルズいいよねみたいな感じで終わりますが、間違いなく言えるのは現代の要請はLet it beではなくLet it go!です、だからアナ雪はみんなが見る映画になったのだと思います。

裏を返すと現実と理想のギャップが大きい競争社会を象徴しているとも捉えることができます。ひねくれた見方かな…。

とりとめない話ですいません。

いつか死ぬ覚悟の話

建築士試験の失敗

昨年、建築士の試験を受験して一次試験はなんとかパスしたのですが、12/9に実施された二次試験はどうなったか?というと結果は不合格でした。今思えば二次試験を受験する頃にはかなり疲れ切っていたなと思います。二次試験の途中、製図の試験なんですが、途中で試験を放り出して帰ろうと思ったんです。あんなに勉強してきたのに。何故そう思ったかと言うと試験の途中でもうこれ以上描いても合格レベルの図面にはならないなと思ったからです。試験の最中に60秒くらいでしょうか手を止めて考えてしまいました、もう帰ろうかどうかと。

結局、途中退室はせずとりあえず時間ギリギリで図面は形にして提出しました。提出した後、数分間なんとも言えない状態、放心状態というか虚しさが込み上げてくると言うか、でもとりあえず終わったから試験勉強からは解放される安堵感も混ざっていたり、なんと言ってよいかわからない感情があって席に座ったままボーッとしてしまいました。家に帰ってからは、周囲の人にはまず合格はないだろうと伝えていました。それでも淡い期待はしていたんです。そして2/5に合格発表がありましたが、やはり合格者名簿に自分の受験番号と名前はいくら探してもありませんでした。

これはこれで仕方のないことで気持ちを切り替えてまた勉強し直して次回の製図の試験を受けようと思っていました。でも、その気持ちをまったく変えてしまう事件とでも呼べるようなことが起こりました。

生きていくうえで何を優先すべきか

44歳にしてはじめて人間ドックで健康診断を受けたのですが、その結果が2月の下旬に送付されてきてほとんど異常なしだった中で前立腺に関する腫瘍マーカーが異常値を示しているということで再検査の指示が書かれていたのです。

後日、勤めている会社から近い大きめの病院で再検査を受けました。そこでも腫瘍マーカーの値は下がらない結果で、さらに詳しく調べるためにCT画像の撮影をする検査まで進みました。この時点で、もしかしたらいきなりステージ4など言われてしまうこともあり得るなと思い始めました。後日CT画像など検査の結果から医者の先生の説明で出た話は前立腺癌の疑いがあるという内容でした。40代で前立腺癌になる人というのは10万人に数人です。さらに詳しく検査する必要があるということで身体の細胞を直接とって癌細胞の有無を調べる検生針検査という検査を受けることになりました。この検査は前立腺に十数箇所から二十数箇所、細胞を採取するための針を刺すというもので下半身麻酔をかける必要もあることから検査入院が必要となります。それなりに身体への負担がある検査で高齢の方などはこの検査自体を避けることもあるそうです。

CTの画像を見ながら前立腺癌の疑いがあると言われた時に、もしかしたらあと数年の命かもしれないと瞬時に思いました。妻と母親にはすぐにこのことを話しましたが母親なんかは電話で話している途中で泣き始めてしまい、やっぱり言わない方が良かったのかなとか思ったりもしました。

あと数年しか生きられないとしたら、今、何を優先させるべきなんだろう?と考えました。この時にはっきり頭の中に浮かんだのが、建築士の試験勉強なんかやってる場合ではないということでした。昨年一年間は周りの人に協力してもらいながら、それこそ必死になってやってきて結果が出せなかった、だから次回の試験で結果を出さなければならないから勉強は継続しようとそれまでは思っていたのに。自分で自分にびっくりしました、躊躇なくすぐにこれはやめようと決断したことに。

最も優先順位が高いと思ったのは家族と過ごす時間の確保です、次女は産まれたばかりなので特に家族と過ごす時間は優先させたいなと頭に浮かびました。次に高いと思ったのは今の仕事をしっかり続けること。後輩や部下へ自分が伝えられる知識やノウハウは形にして残さないといけない、もっと仕事のレベルを上げていかないといけない、そう思いました。あとはもっと世の中に対してアウトプットしていきたいということ、このブログがその役目を果たすためのツールとしては有効と思っています、いま現在はまだほぼ誰にも読まれていませんが。

検生針検査を受けるための検査入院をするタイミングは、新型コロナウィルスの感染者数がかなり増えている時期と重なりました。もしかしたらこの影響で検査入院が延期と言われるかなとも思いましたが滞りなく検査は実施されました。家族の立会が必要ということで妻が子供の世話から離れるのがなかなかできない状況なので母親が来てくれたのですが、こんなコロナ騒動の中にも関わらず駆け付けてもらって本当に感謝しました。

検査の結果は意外でした。癌細胞は発見されませんでしたという報告が担当のお医者さんの口から説明されました。しかし腫瘍マーカーの数値は下がっていないのでまったく癌の疑いがなくなったわけではないとのこと、現在も通院は続けて経過をみていただいているという状況です。

死ぬ覚悟はできているつもりだっただけかもしれない

あと数年しか生きられないかもしれないと思った時、今も癌の疑いは晴れていないし、もしかしたら明日交通事故で死ぬかもしれないのですが、どう生きるべきかを再考しました。死ぬことはやはり怖いというのはありますが、あまり怖がっていても意味がない。親父が死んだ時に生と死は地続きなんだなとそう確信しました。生きているという状態の延長線上に死という状態があるということで死はごく自然なことなはずです。すると結局は今をどうより良く生きるかを考えるしかないという結論にしかならない。

自分の中では死ぬ覚悟はある程度できているはずと思っていましたが、今回の前立腺癌の疑いを言われていろいろ考えた時に、全然死ぬ覚悟なんかできていなかったなと、嫁さんと、もしステージ4とか言われた時の話もしましたが話している時に「俺、全然死ぬ覚悟なんかできてない」とわかってしまいました。リアルにこの事態になってようやく少しだけ死に対する考え方が深まったに過ぎない。

子供の頃4から6歳頃がピークだった気がしますが、なぜか毎日のように自分が死ぬ夢を見ました。あれはなんだったのか今も謎ですが戦車の砲弾が身体を貫通したり、ピストルで撃たれたり、高いところから落ちたり何度も死ぬ夢を見ました、だからかわかりませんが意外と死に対してはもともとドライなところはありました。そして今回の癌疑いでさらに自分の死についていろいろ考えた時期を経由した今、新型コロナの騒ぎでものすごく怖がっている人を見かけるとちょっと笑ってしまいます。日本ではインフルエンザより死者が少ないウィルスでそこまで?と。この人はこれまでの人生で自分が死ぬことを想像したことがないのかなと不思議に見えます。第二次世界大戦時の特攻隊の若者の言葉を思い出します「俺は確信する 俺たちにとって死は疑いもなく 確実な身近な事実である」。