建築現場にどこまでAIが入り込めるのか?素人なりに考えてみる

建築設備の仕事をしていますが建築現場の仕事にどれくらいAIが入り込んで来ることができるのかよくわからない…。これからの時代AIが人間の仕事を奪うというのはわかるけど、いつまでに、どうなるのかいろいろ本を読みながらAIに関しては素人ながら考えてみました。

AIは建築図や設備図を読み取って見積ができるか?

昨今よく話題になるAI、現在の技術では人間と同じように考えて行動できるようなレベルのAIは実現できていません。しかし、AIには得意分野はあります。その得意分野においては人間の能力をしのぐ効果を発揮しています。

ディープラーニングの登場によって最近はAIによる画像処理技術(パターン認識)はかなりの進化を遂げました。と言っても人間とまったく同じように画像を認識できるわけではありません。でも、ある写真の中に存在する椅子やテーブルや猫や犬など特定の画像を探し出して認識するのは得意です。CTやMRIの画像をスキャンして疾患があるかどうかを判断するという作業は日々サンプル画像を得ることが可能で膨大なデータが蓄積されているためディープラーニングに向いておりAIは自律的に学習して仕事の精度を上げていくことができます。画像診断の仕事はAIが担う一歩手前まで来ているようです。ただしAIはなぜその画像を疾患があると判断したのか、その理由を説明することはできません。画像を何か「意味」があるものとして認識するということはないからです。なので医療の現場においてはあくまで補助的にAIに診断の手伝いをしてもらうという形をとり診断の最終判断は人間がして責任については人間が持つということになると思われます。

ここまでの話を参考に考えますが、では、ディープラーニングをすることによってAIが建築図や設備図を読み取れるようになるかどうか。建築図や設備図を何万枚とAIに読み取らせてもその図面全体の「意味」を読み取ることは現在のAIにはできません。でも、見積に必要な拾いであればかなりできるかもしれません。実際にCADで描いた図面はデータの入力をきっちりしながら描けば壁の面積や配管長さなどデータとしてすぐに出せます、これはAIと呼べるものとは違いますが。

ちなみに入札図面はCAD データではもらえません、なぜなら入札時点で図面データをいじられたくないからです。勝手に変更された図面が受注業者が決定する前の段階で出回ることはあってはならないので防衛手段としてデータを渡すということはされていません。なので、どうしても紙の図面あるいはPDFなどいじれないデータで拾いをすることになります。

よって、見積依頼でもらった図面をスキャンしたら配管長さや器具の個数などある程度拾って自動で見積してくれるAIがあったらいいなということになります。実際にある程度壁や床の面積を拾ってくれるソフトは今もあります。でも、これはAIではなく人間がかなり手をくだして成り立つというレベルのもので、そこまで劇的な作業効率のアップは感じません。

図面にはけっこう曖昧な表現があります。また、印刷がかすれていただけでも図面を読み取れないという事態が発生しそうです。AIが読み取れるように人間が図面を描き直すとしたら、それは効率が逆にダウンしていることになります。あとは図面上のこのシンボルが何なのかなど部分的にわかったとしても全体の意味がわからないとしたら結局、人間がこの図面は建築の平面図だよ、設備の給水設備図だよ、みたいなインプットからいちいちすることになるかもしれない。それなら最初から人間がやるのと変わらないじゃん、という話になりかねない。AIが人間と同レベルで図面の意味を理解して見積まですることは現在は難しそうです。

墨出し作業ができるロボットはすでに存在する

現場で墨出しという作業があります。これは例えば1/100スケールで描かれた図面があるとして、それを実寸で現場の床や壁などに描いていく作業になります、工程の初期段階においてかなり重要な作業になります。もう1年以上前ですが2019年の4月17日に竹中工務店から墨出しロボット実用化のめどがついたという情報がリリースされました。https://www.takenaka.co.jp/news/2019/04/03/index.html

OAフロアの墨出しができるとのことで、OAフロアの支持材の位置を現場の床にプロットしていくという作業ができる、というところまではできるようです。

では、店舗の内装のような複雑な間取りの墨出しをロボット単独でできるようになるのかどうかということです。OAフロアは決まった形のものを敷き詰めるイメージですから墨出しとしては比較的単純な作業になります。でも、店舗の内装はかなり複雑です。アールのついた壁がデザインされていることもある、図面で描かれた内容に従って部屋の大きさを確保しようと思っても躯体の歪みがあって微妙な調整が必要になったりします。お客様の要望をかなえるためにはどう墨を出すのがベストなのか悩む現場監督を何度も見てきました。AI技術を駆使してこれらの仕事はできないのか、と思いますが墨出しロボットがお客様の要望まで考慮しながら墨出しをすることはありません。そのような意思をAIは持っていませんし、それをインプットすることは現在の技術では不可能です。できたとしても遠い未来の話になります。そもそもAI自体が意志を持つことはありません。あくまでAIは人間が作り出した道具であってそれ以上でもそれ以下でもありません。

それでも単純な作業はできるところまで来ているとしたら、基準となる墨をザックリ出してもらうという補助的な仕事まではしてもらって複雑な部分や微妙な調整が必要になる部分は人間が行うという使い方をしていけば良いのかもしれません。うまく仕事の棲み分けをしていけば効率は上がる可能性がかなりある、だからスーパーゼネコンも開発に力を注いでいるのだと思います。

建築現場の作業は見た目よりかなり複雑だAIはこなせるのか?

セキスイハイムが住宅のユニット工法の組み立て作業においてにロボットを取り入れています。全ての作業をロボットでできるようになったわけではないようですが効率は上がった、そこにかけていた時間を付加価値の高い作業に振り替えることができるようになったとのこと。また、三和シャッターは壁などに使用するALC(軽量気泡コンクリート)にかわる施工支援ロボットで施工可能な耐火間仕切用耐火パネルを売り出している。これらは年々、現場作業従事者が減っていく中で人材不足を補うための解決策として開発されています。私など状況をただ手をこまねいて見ているだけの人間からは素晴らしいアイデアだと感心してしまいます。

一方、AIというものが現場に取り入れられているのかどうか、です。それができている状態とはAIを頭部に装備したヒューマノイドが人間や図面の指示に従って自立して複雑な現場作業をこなしている、そういうことになりそうですがこれは現在の状態からしたら到底無理なレベルの話だとわかります。

AIという言葉を聞くと、私などは人間に変わってなんでもできるものを想像してしまっていましたがAIに関連する本を何冊か読むと、それは妄想に過ぎないことがわかります。「東ロボくん」という東京大学受験に挑戦するAIを開発するプロジェクトを率いる新井紀子という方の著書に人間の知能と同等の機能を果たす人工知能はできるかどうかについての記述があります。コンピューターがしているのは四則演算なので人工知能を実現するには人間の知的活動を四則演算で表現するか、それができていると感じる程度に近づけることだとあります。そしてそれができるかどうかについては明確に、遠い未来はともかく近未来にそれができることはないと述べています。それはなぜなのか知りたい方はは「AI vs教科書が読めない子供たち」を読んでいただければと思います。

ということで結局、AIが現場で大活躍というのはただの妄想。ですが人間に変わって様々な作業の補助をしてくれる可能性はかなりある。建設業においては人手不足を補う一つの方法として真剣に取組んでいかなければならないのだろうなと、そう思います。

ポカホンタスからの大陸開拓のリアルについて

前回ポカホンタスを観た感想を書き始めたらアメリカ大陸の発見以降、西洋人がどのようにその勢力を世界中に拡大していったのかという話に脱線しました。そのまま話が長くなってしまったので一旦中断、今回はその続きです、もうしばらくお付き合いください。

ポカホンタスがいたのは17世紀初頭

で、ようやくポカホンタスが登場する17世紀の初頭1610年頃の話です。場所はアメリカ大陸のヴァージニア植民地での話になりますが現実においては、ポカホンタスはイギリス人に捕われて人質として過ごしていました。そしてキリスト教へ改宗しイギリス人と結婚したそうです。この結婚は一時的にポウハタン族とイギリス人入植者との間に平和をもたらしたようで美談として現在も語られているようです。この話がポカホンタスの映画の元ネタということだと思います。この辺の話はWikipediaに書いてある話を参考にしました。

ポカホンタスはイギリスに来て夫のジョン・ロルフと共に当時の王室のジェームズ1世に謁見して1年間程度イギリスに住んでいたようです。またアメリカに帰る途中の船で病となり23歳という若さで亡くなってしまいます。天然痘、結核などと言われていますが資料により異なるようです。おそらく西洋人からの感染によるものと思われます。抗体を持たない新大陸の先住民は天然痘やチフスなど西洋人が持っていた感染症で死んでしまう確率は高かったものと思われます。

17世期の初頭はまだ入植者の数がそこまで多くなかったのか、イギリス人入植者を受け入れようと食糧を分け与えるるなどインディアン側の譲歩もあったようなのでポカホンタスのような美談(だいぶ美化されているのかもしれませんが)が生まれる素地はあったようです。

しかし、西洋人はインディアンを人質にとって食糧を要求するなどせっかくの好意を無駄にするようなこともしたようです。仁義というものがまったく通用しない仁義なき闘いですね…こういう負のエピソードは隠されてしまいがちです、全ての西洋人がそうではなかったとも思いますが。

植民地の拡大とアメリカの独立

そして、時は過ぎて18世紀。フランス人と争うようにアメリカ大陸への入植者を増やしていくイギリス人。ヴァージニアを皮切りに現地の先住民を虐殺、略奪し奴隷化していきます。カロライナではインディアン奴隷売買が一大産業となり盛んに行われるようになりました。イギリスはフランスとのアメリカ大陸における利権獲得のための植民地戦争に勝利します。世界中の植民地から得た潤沢な利益によりイギリスは技術革新を成し遂げ産業革命に至ります。

この産業革命は大量生産、大量消費の現代社会の形成の発端となりましたが、それまでよりもさらに多くの資源と製品消費地を必要とするようになります。イギリスはフランスとの植民地戦争には勝利しましたが多額の戦費が財政を圧迫します。このあおりを受けてアメリカ植民地への課税の増税が決まりましたが現地のアメリカ植民地の入植者達はこれを拒否、アメリカ独立戦争が起こります。そして1776年にアメリカは独立宣言をしました。

この頃、アフリカからの南北アメリカへの奴隷貿易が盛んに行われていました。船底にすし詰め状態で奴隷を乗せ糞尿はそのまま垂れ流しの劣悪な環境でした。疫病が流行って亡くなってしまう奴隷もいましたが亡骸は海に捨てられ、船主は積荷の保険金を保険会社に請求するだけでした。また、独立国となったアメリカ合衆国はインディアン保護のために300を超える条約や協定を結びましたが、現地の入植者達はこれをほとんどは守ることはなく民族の破壊は続きました。

19世紀、1820〜30年代に合衆国最高裁判所主席判事ジョン・マーシャルは合衆国憲法に定められた自然権を根拠にインディアンの土地権と自治の資格をある程度認める判決を出しました。しかし当時のジャクソン大統領はこの判決を拒否し、ジョン・マーシャルが判決したのだから彼に判決の執行をさせてみようではないかとうそぶきました。さらにインディアン強制移住法が制定されインディアンは人間の住めないところと言われたミシシッピーの西の保留地へ移住させられます。

こうあれば良かったという理想形

フロンティアの男達はそんな人の住めないと言われている土地でさえ金鉱が発見されるとすぐに奪い取りました。彼らはインディアンの土地を奪って西へ西へ進む、これこそ「マニュフェスト・ディスティニー」つまり天から与えられた明白な使命だと言ってこの行為を正当化しました。

大陸の開拓の歴史をざっくり書きましたが、これらの歴史をある程度知ったうえでポカホンタスを観たときに何を感じるでしょうか。インディアンがイギリス人をはじめとする西洋人に破滅の道をたどらされたことは間違いありません。

ポカホンタスの物語りでは殺されそうになる西洋人のジョン・スミスをポカホンタスが身を投げ打って守り、ポウハタン族の首長は西洋人との争いを避ける決断をしました。そして、西洋人はポウハタン族の土地から去っていきます。

しかし、現実において西洋人はヴァージニアから去っていません。ヴァージニアを起点にインディアンの土地を徹底的に奪い、民族を破壊してきましたから、この物語においてはせめて、こうあれば良かったという理想形を描いたのかもしれません。

ジョン・スミスはポカホンタスに一緒にイギリスにくるようお願いしますが、ポカホンタスはその地に残ると言います。ジョン・スミスとの恋愛よりも家族やその土地とのつながりを優先しています。

これは男女の恋愛ストーリーとしてはハッピーエンドではありませんがリアリティは感じます。ポカホンタスがイギリスに行って幸せに暮らしましたとさ、とはならないしそれをやってしまったら歴史をある程度知っていたらシラけるだけでしょう。そんな(西洋人にとって)都合の良い話ってあるの?ということです。

ポカホンタス2というのもあるようですが、まだ観ていません。ポカホンタスがイギリスに行くというストーリーのようで、これ観てしまったらせっかくの好印象が壊れそうな気がしていますがどうなのでしょうか。また観てしまったら感想書くかもしれません、そしてまた長くなるかも…。

ポカホンタスはディズニー映画の中でもシリアス度MAX

子供がテレビばかり見ています、ステイホームを無駄に満喫している様子ですが、さすがに見過ぎでしょと思いつつ子供が見ているテレビをその後ろから見てしまうという…。

リアルに描かれる登場人物達

先日、ポカホンタスを見ちゃいました。これ25年前の1995年の作品です。ディズニー映画というと登場人物はディフォルメ化されていて頭が大きくてかつ目が大きく描かれている場合が多く、そういう描き方をした方がキャラクターが可愛いく見えるし、子供たちも親近感を抱くからそうしているのだと思います、これ私のまったくの予想でしかないのですが。

 ポカホンタスに出てくる登場人物は他のディズニー映画と比較してディフォルメ化の度合いが低いと感じました。現実の人間と同様の7から8頭身程度でしょうか、頭を大きめにディフォルメはしていない様子です。目もそこまで大きくはなく成人の大人は大人として、人間そのままの形で描かれています。ディズニー映画では必ず出てくる動物たちですが、これだけはいつものディズニー映画と同じようにディフォルメされていてアライグマ?とハチドリとパグ犬?はかわいい感じになってました。やけにリアルに描かれた人間とのギャップに最初は若干の違和感を覚えましたがすぐ慣れました。

インディアンの女の子が主役で恋する相手が西洋の白人という設定の時点で何も起こらないはずがない。アメリカ大陸の美しい自然と若くて綺麗なポカホンタスが描写される一方、イギリスからの入植者が海を渡る様子も描かれます。インディアンという先住民族を殺し、制圧して現在のアメリカが成り立っているという歴史を知っているとしたら物語の序盤から不穏な空気しか感じない展開です。ディズニー映画の中でこんなに不穏な空気感を醸し出している作品は他にはないはず。インディアンと西洋人の恋愛を描くこと自体、ディズニーにとってもかなりリスクの高い仕事であったことは間違いないはずです。

 イギリス人の入植者達がポウハタン族の土地に入り込んで金の採掘を始める、実際は金などその土地では出ないのに。当然、ポウハタン族の男達はイギリス人の偵察を始める。そして、あいつらは人の土地で何をしているんだ、けしからん!となる。

 一方、イギリス人入植者の中でも好奇心旺盛で仲間思いで人望の厚いジョン・スミスは単独行動で新しい土地の自然を満喫しているところでポカホンタスと出会います。そしてお互いに惹かれあっていきます…。この物語は実話に基づいているらしいですが、この出会いのシーンはフィクションだなと思いました。ちょっとネットで調べたら、ジョン・スミスがアメリカ大陸に着いた頃ポカホンタスはまだ10歳程度だったようなので映画で描かれたようなロマンスは実際には無かったようですね。

 そして、いろいろあった後、ポカホンタスの婚約者ココアムがジョン・スミスとポカホンタスが熱くキスしているのを見てしまい発狂→ジョンスミスに襲い掛かる→それをさらに外側から見ていたジョン・スミスの友達が銃で撃つ→ココアムに弾当たる→ココアム倒れる→ココアム死んじゃう、のですがこの一連のシーンは見応えかなりあります。普通のディズニー映画だったらキスシーンは主人公が幸せを掴んだ象徴となっていることが多いですが、ポカホンタスではキスシーンからのこの一連のシリアスな展開です。ココアムが嫉妬心に駆られて木陰から飛び出して襲いかかるシーンはアニメとは思えないリアリズムを感じます。逆にアニメだからあのような象徴的なシーンに仕上げることができたのかもしれません。あれを実写で役者に演じてもらっても、あのようなシーンにはならないはず。

大陸開拓のリアル

劇中に出てくるスペイン人は黄金で大儲けをしたという話しですが、中南米に入り込んだスペイン人のコルテスとピサロの話しなのかなと思いました。西洋人によるアメリカ先住民インディオに対する侵略と言える話しです。概要を紹介しておきます。

1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見して以降、1521年にはスペイン人のコルテスによってアステカ帝国が滅ぼされました。当初はアステカ帝国の兵力が圧倒的に上回っておりスペイン軍は敗走寸前でしたがいつまでたってもアステカ軍による最後の総攻撃が始まらない。時間を稼ぐことでコルテスは体勢を立て直しアステカの首都テノチティトラン(現在のメキシコ市)へ乗り込んだときに見たものは何者かにすでに襲われ壊滅した街の様子でした。スペイン人が持ち込んだ天然痘による死者で街が埋め尽くされていたのです。こうしてあっけなくアステカ帝国は崩壊し、コルテスは膨大な財宝を略奪することに成功しました。

1533年にこちらもスペイン人ですが、ピサロによってインカ帝国が襲われました。中米、アステカ帝国から入り込んだ天然痘は1525~1526年までには南米まで達しておりピサロがインカ帝国に入ったころにはその人口の急減により政治基盤は崩壊寸前の状態だったようです。従軍司祭バルデルベはインカ王のアタワルパにキリスト教への改宗を求めるが王はこれを拒否します。するとバルデルベはピサロに「あのような者たちと議論しても仕方ない、やっつけなさい。ピサロとその兵士はこれからの流血に対するいかなる責めからも神の名において免ぜられる。」と叫びました。そしてインカ帝国の貴族を含む数千人が殺害され、アタワルパは捕らえられました。アタワルパはピサロへ黄金の財宝を渡す代わりに釈放を願い出ます。そして財宝がピサロの元へ運び込まれましたがピサロは約束を守らず、釈放はしませんでした。バルデルベが正義の名による裁判というもので彼を裁いた結果、一夫多妻・人民殺害等の罪という訳のわからない罪名による死刑が言い渡されてしまいます。火あぶりに処すということに決まりましたがバルデルベ司祭はキリスト教に改宗するのであれば苦痛の少ない絞首刑にするということで最終的にアタワルパはキリスト教に改宗したその後すぐに絞首刑に処せられます。その後はもうスペイン人のやりたい放題で、天然痘やチフスが免疫を持たないインカ帝国の民の間で大流行して多くの人が亡くなる中で生き残った民は金鉱を掘る作業に奴隷として従事させられました。その重労働によってさらに多くの人が命を落としていきました。

以上が過去の歴史においてスペイン人が中南米で行ったことで当時、現地に赴いてこれらの行為を見たスペイン人の司教ラス・カサスが問題として50年にわたり現地人の窮状を訴え続けていました。

ポカホンタスから話が脱線してしまい、しかも長くなりそうなので一旦ここで今回はおしまいにして次のブログでアメリカの大陸の開拓とポカホンタスの実話も絡めて話せればと思います。

新型コロナ騒動を考察してみる

グラフを見ながら現実を直視

各国の死者数と日本のそれのを見ていていろいろ思うことがあります。

各国の百万人あたり死者数推移
6/7時点の百万人あたり死者数

英オックスフォード大学が運営するOur World In Dataから提供されている新型コロナに関する統計情報を参考にします。各国の死者数の推移を調べてみました。死者数をそのまま比較しても人口の違いがあり比率がわかりにくいため百万人あたりの死者数の推移のグラフで検証します。

United Kingdom=イギリスは100万人あたりの死者数6/7の時点で596.07人です。これに対して日本は7.24人です。推移のグラフを見てもわかるように日本の数値は他国と比較して圧倒的に少ないためグラフの形が地を這うミミズのようになってしまっているという…。3月の中旬から下旬にかけてアメリカやイタリアの死者がうなぎ上りで増加していた時は、これはもしかして日本もヤバいのではないかと一瞬思いましたが欧米の国とグラフの傾きがまったく違うのを見て4月の頭頃には、ちょっと日本は違うなと考え直しました。多くの人が同じように気付いたはずだと思ったのですが現実は違いました。世間の多くの方はロックダウンや緊急事態宣言を求めました。そして4/7から5/25まで緊急事態宣言は続き経済活動は急激にブレーキをかけられ解除後もまだ自粛ムードがかなり残る中、多くの企業が倒産しており、生き残った企業も前年比大幅な業績ダウン、今後さらにこの影響による負の連鎖が続きます。深刻な事態が浮き彫りになるのはこれからだと思っています。たぶん夏のボーナスはコロナ前の成績で判断なので出る企業はあると思いますが冬のボーナスを出せる企業は減ると思っています。

スウェーデンの結果から考えられること

スウェーデンは緩和策をとってロックダウンは実施せず、50人以上のイベントの禁止や高齢者施設への訪問の禁止などの決まり事以外は市民の判断での感染防止策に任せて、ほぼ普段通りの生活をしながら集団免疫を獲得して収束を目指すという方法を採用した唯一の国です。死者数は百万人あたり6/7の時点で461.02人と欧米の中でも多めの数値となっていますがロックダウンという抑圧策をとったイギリスなどの国との死者数のグラフの形が相似形となっていることからロックダウンをする必要性は無かったのではないかということも言われています。

これを認めてしまった場合にロックダウンや緊急事態宣言発令などの政策をとった国の指導者はそれによって起こった景気後退の責任を取らなければならない可能性もあるし、これだけ国民にステイホームの対応を要請して我慢を強いておいて、今更意味がなかったとはなかなか言えないはずですがグラフを見る限り、ロックダウンや緊急事態宣言によるさまざまな活動自粛の有効性がどれほどあったのか、経済的な損失をこれほどまでに拡大して実施するだけの意義があったかの検証は必要と思われます。

新型コロナの恐怖だけをむやみに煽るメディアが多いと感じています。結局は自分で情報を探して自分で考えて判断するしかないのですが、あまりにも情緒に流された意見が多すぎる気はしています。NHKのニュースや民放のワイドショーなどを見ていると真実や事実を追及するスタンスよりも、ただ世間の論調に無難に合わせていい顔したいだけの人たちが番組を作っているように見えてしまいます、私には。

日本においては新型コロナによる死者は圧倒的に少なくインフルエンザよりも感染力、毒性ともに弱いというのが現実ではないでしょうか。また、スウェーデンの結果からロックダウンや緊急事態宣言の有効性まで問われているという状況です。

なので、自粛ムードはまだ残っていますが、個人的にはもう気にせず普段通りの生活をすればよいと思っています。普通に会社帰りに居酒屋も行けばいいし、キャバクラも行けばいい、パチンコも行きたい人は行けばいい、サーフィンもゴルフも普通に行けるはずです。ネックになっているのはこの自粛をまだ強要しようとする空気感です。これをなんとか変えられないものかと思っていますが時間が解決してくれるのを待つしかないのでしょうか。

Let it beよりLet it goは厳しいよね

白雪姫からアナ雪への飛躍

最近小学校1年生の子供がずっと家にいます。それはなぜか?小学校が休校だからです。ようやく6月から小学校も始まるようですがクラスを3つの班に分けて週2で通うようにして密を避けるとのこと…まだ通常に戻るまでに時間がかかりそうです。

で、子供が家にいる時何をしているか?うちの子供の場合はかなりの時間テレビを見ています。放っておけば3時間くらいずっと見ているので、そんなに見てはダメだとたまに怒りますが怒るとイジけたりします。アニメが大好きでドラえもんとクレヨンしんちゃんは鉄板です。土曜日が待ち遠しくてたまらないようです。アニメの映画もかなり見ていますが一時期繰り返し見ていたのが「アナと雪の女王」です。今も思い出したようにアナ雪を見始めることがあります。特に興味も無かったので一緒に見ることもなかったのですが、あまりにも何度も子供が見ていたので、最初はぶつ切りで目に入っていたストーリーがそのうちつながって全体がわかるようになりました。

思ったのはこれはおもしろい映画だなと、売れるのもわかる気がしました。ディズニー映画だと白雪姫とかシンデレラは有名というか知らない人はいないと思いますが女の子が王子様に見染められて幸せになるというストーリーで、うがった見方かもしれませんが男の権威に女が取り入るということで幸せを掴んでいます、夢ぶち壊し、ストーリー端折りすぎですいません。

アナ雪で出てくる王子様、ハンス王子は実は悪役という設定で、アナを助けるクリストフという男も脇役気味で、真実の愛で雪が溶ける話もクリストフとの愛で…というわけではなく姉のエルサとの愛によって成されます。序盤においては主役級の目立ちかたをするハンス王子が実は悪役というのは最初に見たときには衝撃的でした。

もっと言ってしまうとアナ雪においては男はアナとエルサの引き立たせ役でしかない、男に媚びることもないキャラが男からちょっと助けてもらいながら冒険するし、自分の殻を破って覚醒しちゃったりする。これは現代の女の子による女の子のための物語なんだと、そう思います。もう男に媚びる女性像は古い、権力や容姿で男を選ぶことはない、女の子は女の子の意思で自由に人生の選択をして強く生きていくんだという、そういうメッセージが込められているのではないでしょうか。白雪姫やシンデラの時代からの飛躍はかなりのものです。

ありのままの自分とは

劇中でエルサが自分自身の能力を解放する象徴的なシーンでLet it goという歌を歌います。これ、うちの子も大好きでお風呂とかで大声で歌い始めたりします、歌詞はめちゃくちゃですが…。

日本語バージョンだと「ありのままで」という副題がついていますがよくよく歌詞を聞いてみると、このままじゃダメなんだという動機からのありのままの自分になるという、そういう歌詞です。これけっこう実はツラい状況で現在の自分を受け入れてはおらず、本当の自分は環境などに押さえ込まれてしまって全ては出せていない、ということです。現代の女性の状況を象徴しているようにも感じます。

ビートルズの名曲Let it beもありのままという意味ですが、こちらは今のままの自分でもいいんじゃない?そんなに無理しなくて、というニュアンスが強いと思います。悟りの境地というかいろいろあるけどまあ、今のこの状況を受け入れてやっていきましょうという感じです。

キリスト教徒であるポール・マッカートニーが聖母マリア様からいただいた言葉として歌っていますから、かなり宗教感が入り込んだ厳格ささえ感じてしまう歌です。個人的にはやはりビートルズのLet it beの方が好きかな。なんか聞いていると落ち着きますし…小さい頃母さんがよくレコードで聴いてたのを思い出します。

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom

Let it be

マリア様は僕のところに来て

素晴らしい言葉を言ってくれたんだ

ありのままでいいんだよって

なんか結局ビートルズいいよねみたいな感じで終わりますが、間違いなく言えるのは現代の要請はLet it beではなくLet it go!です、だからアナ雪はみんなが見る映画になったのだと思います。

裏を返すと現実と理想のギャップが大きい競争社会を象徴しているとも捉えることができます。ひねくれた見方かな…。

とりとめない話ですいません。

いつか死ぬ覚悟の話

建築士試験の失敗

昨年、建築士の試験を受験して一次試験はなんとかパスしたのですが、12/9に実施された二次試験はどうなったか?というと結果は不合格でした。今思えば二次試験を受験する頃にはかなり疲れ切っていたなと思います。二次試験の途中、製図の試験なんですが、途中で試験を放り出して帰ろうと思ったんです。あんなに勉強してきたのに。何故そう思ったかと言うと試験の途中でもうこれ以上描いても合格レベルの図面にはならないなと思ったからです。試験の最中に60秒くらいでしょうか手を止めて考えてしまいました、もう帰ろうかどうかと。

結局、途中退室はせずとりあえず時間ギリギリで図面は形にして提出しました。提出した後、数分間なんとも言えない状態、放心状態というか虚しさが込み上げてくると言うか、でもとりあえず終わったから試験勉強からは解放される安堵感も混ざっていたり、なんと言ってよいかわからない感情があって席に座ったままボーッとしてしまいました。家に帰ってからは、周囲の人にはまず合格はないだろうと伝えていました。それでも淡い期待はしていたんです。そして2/5に合格発表がありましたが、やはり合格者名簿に自分の受験番号と名前はいくら探してもありませんでした。

これはこれで仕方のないことで気持ちを切り替えてまた勉強し直して次回の製図の試験を受けようと思っていました。でも、その気持ちをまったく変えてしまう事件とでも呼べるようなことが起こりました。

生きていくうえで何を優先すべきか

44歳にしてはじめて人間ドックで健康診断を受けたのですが、その結果が2月の下旬に送付されてきてほとんど異常なしだった中で前立腺に関する腫瘍マーカーが異常値を示しているということで再検査の指示が書かれていたのです。

後日、勤めている会社から近い大きめの病院で再検査を受けました。そこでも腫瘍マーカーの値は下がらない結果で、さらに詳しく調べるためにCT画像の撮影をする検査まで進みました。この時点で、もしかしたらいきなりステージ4など言われてしまうこともあり得るなと思い始めました。後日CT画像など検査の結果から医者の先生の説明で出た話は前立腺癌の疑いがあるという内容でした。40代で前立腺癌になる人というのは10万人に数人です。さらに詳しく検査する必要があるということで身体の細胞を直接とって癌細胞の有無を調べる検生針検査という検査を受けることになりました。この検査は前立腺に十数箇所から二十数箇所、細胞を採取するための針を刺すというもので下半身麻酔をかける必要もあることから検査入院が必要となります。それなりに身体への負担がある検査で高齢の方などはこの検査自体を避けることもあるそうです。

CTの画像を見ながら前立腺癌の疑いがあると言われた時に、もしかしたらあと数年の命かもしれないと瞬時に思いました。妻と母親にはすぐにこのことを話しましたが母親なんかは電話で話している途中で泣き始めてしまい、やっぱり言わない方が良かったのかなとか思ったりもしました。

あと数年しか生きられないとしたら、今、何を優先させるべきなんだろう?と考えました。この時にはっきり頭の中に浮かんだのが、建築士の試験勉強なんかやってる場合ではないということでした。昨年一年間は周りの人に協力してもらいながら、それこそ必死になってやってきて結果が出せなかった、だから次回の試験で結果を出さなければならないから勉強は継続しようとそれまでは思っていたのに。自分で自分にびっくりしました、躊躇なくすぐにこれはやめようと決断したことに。

最も優先順位が高いと思ったのは家族と過ごす時間の確保です、次女は産まれたばかりなので特に家族と過ごす時間は優先させたいなと頭に浮かびました。次に高いと思ったのは今の仕事をしっかり続けること。後輩や部下へ自分が伝えられる知識やノウハウは形にして残さないといけない、もっと仕事のレベルを上げていかないといけない、そう思いました。あとはもっと世の中に対してアウトプットしていきたいということ、このブログがその役目を果たすためのツールとしては有効と思っています、いま現在はまだほぼ誰にも読まれていませんが。

検生針検査を受けるための検査入院をするタイミングは、新型コロナウィルスの感染者数がかなり増えている時期と重なりました。もしかしたらこの影響で検査入院が延期と言われるかなとも思いましたが滞りなく検査は実施されました。家族の立会が必要ということで妻が子供の世話から離れるのがなかなかできない状況なので母親が来てくれたのですが、こんなコロナ騒動の中にも関わらず駆け付けてもらって本当に感謝しました。

検査の結果は意外でした。癌細胞は発見されませんでしたという報告が担当のお医者さんの口から説明されました。しかし腫瘍マーカーの数値は下がっていないのでまったく癌の疑いがなくなったわけではないとのこと、現在も通院は続けて経過をみていただいているという状況です。

死ぬ覚悟はできているつもりだっただけかもしれない

あと数年しか生きられないかもしれないと思った時、今も癌の疑いは晴れていないし、もしかしたら明日交通事故で死ぬかもしれないのですが、どう生きるべきかを再考しました。死ぬことはやはり怖いというのはありますが、あまり怖がっていても意味がない。親父が死んだ時に生と死は地続きなんだなとそう確信しました。生きているという状態の延長線上に死という状態があるということで死はごく自然なことなはずです。すると結局は今をどうより良く生きるかを考えるしかないという結論にしかならない。

自分の中では死ぬ覚悟はある程度できているはずと思っていましたが、今回の前立腺癌の疑いを言われていろいろ考えた時に、全然死ぬ覚悟なんかできていなかったなと、嫁さんと、もしステージ4とか言われた時の話もしましたが話している時に「俺、全然死ぬ覚悟なんかできてない」とわかってしまいました。リアルにこの事態になってようやく少しだけ死に対する考え方が深まったに過ぎない。

子供の頃4から6歳頃がピークだった気がしますが、なぜか毎日のように自分が死ぬ夢を見ました。あれはなんだったのか今も謎ですが戦車の砲弾が身体を貫通したり、ピストルで撃たれたり、高いところから落ちたり何度も死ぬ夢を見ました、だからかわかりませんが意外と死に対してはもともとドライなところはありました。そして今回の癌疑いでさらに自分の死についていろいろ考えた時期を経由した今、新型コロナの騒ぎでものすごく怖がっている人を見かけるとちょっと笑ってしまいます。日本ではインフルエンザより死者が少ないウィルスでそこまで?と。この人はこれまでの人生で自分が死ぬことを想像したことがないのかなと不思議に見えます。第二次世界大戦時の特攻隊の若者の言葉を思い出します「俺は確信する 俺たちにとって死は疑いもなく 確実な身近な事実である」。

新型コロナウィルスはインフルエンザより怖いのか?

延期になった勉強会

新型コロナウィルスですが、この記事を書こうかなと思い始めた4/7の時点で日本では感染者3976人死者94人でした。いま現在5/10にこの記事を書いていますが感染者15628人死者601人です(日本経済新聞のデータです)。

 勤めている会社内での話です、内装工事の施工をメインにしている会社ですが、夏場の工事にむけて結露対策に関する技術的な勉強会をしようということで資料を作成するために3/27に関係者数人集まって会議をしていた時に出た話ですが数週間後には日本もニューヨークやイタリアみたいになっているだろうから、4月の中旬かゴールデンウィーク前には現場監督対象にして開催したいという話になっていたけど人が集まるということ自体を避けるという意味で各課の課長レベル以上に対象を絞って時間も短縮して開催しましょうということで話はまとまりました。

この判断自体になんの異論もなかったし勉強会は縮小かつ短縮して滞りなく実施しました。結露の問題は理解するのが難しい内容もかなりあるので本当はもっと時間をかけてしっかり説明をしたかったというのが本音です。でも仕方がない、この空気に抗うことはなかなかできません。しかも社内の勉強会の件でそこまでムキになって縮小短縮反対を唱える意味などほぼ無いですし、ニューヨークやイタリアのようになってしまうということであれば、そういった判断に異論を言う必要もない。この事態が落ち着いたらあらためて正式な内容での勉強会をすれば良いことです、結露問題がピークになる夏までに開催できるかという論点は残りますが。で、なぜこんな話を始めたか?ですが、私はこの新型コロナの問題については何とも言えない違和感を感じ続けていてこの空気感が何かおかしい、でもどうおかしいのかうまく頭の中でまとまらないので自分の中でモヤモヤしていたからです。

勉強会の縮小を決めた3/27の時点では日本においては感染者数1387人 死者数46人。イタリアではそれぞれ80539人 8165人でした。3月末の時点でイタリアはかなり深刻な状況だという報道もされており、そもそもEUの緊縮財政の影響で新型コロナが流行る前から医療崩壊していたことやハグやキスを挨拶がわりにする文化があるからなど流行の原因として様々な指摘をされていました。この時点で私が思ったのは、日本人の感染者数と死者数は諸外国と比較してかなり少なくないか?という事です。あとは、増加の仕方も緩やかだとも思いました。日本で初めての感染者が確認されたのは1/14 、初めて死者が出たのは2/13です。イタリアはそれぞれ1/29 2/22です。ちなみにアメリカは1/22 2/29です。ここからわかることはイタリア、アメリカともに日本よりも遅く流行が始まったにも関わらず、感染者及び死者数の増加のスピードは日本よりも何倍も速かったため、あっという間に感染者数、死者数ともに追い抜いてしまったということです。ただし、感染者数については日本においてはPCR検査が少ないという指摘があるので、ある程度正確に観測可能な数値としては死者数に注目しなければなりません。

観測可能で、ある程度正確な数値「死者数」に注目

3/27の時点ではもしかしたら数週間後にはイタリアのようになるのかと思って少しビビった気持ちはありました。では現在日本はイタリアやアメリカのようになったかどうかを検証してみます。注目するのは先程も述べた通り、観測可能なある程度正確な数値として死者数に注目します。5/10現在死者数は日本601人 イタリア30395人 アメリカ78746人です。単純に死亡者数の比較をするとイタリアは日本の50倍アメリカは131倍の人が亡くなっています。国別の人口に対する比率を考えると日本人口1億2618万0643人(Wikipediaより2019年の値)より0.00047% イタリア人口6055万100人(Wikipediaより2019年の値)より死者数の比率は0.0501%アメリカは3億2783万人(Wikipediaより2018年の値)より死者数の比率0.0240%となります。イタリアが最も死者数の比率が大きく日本の比率の100倍を超えます。ちなみにアメリカは50倍です。

この数字から言えることは、5/10現在の日本は幸運にもイタリアにもアメリカにもならなかったということです。なぜこのような結果になったかについては現在は正確に全てを把握することはできませんし科学者の分析結果がわかるのはもっと先のことになると思います。いま勉強のために読んでいる「感染症の世界史」という本の内容に東洋からもたらされた感染症は西洋人が罹ると大量の死者が出て、逆に西洋からもたらされた感染症に東洋人が罹ると、これも大量の死者が出るというような記述があります。今回の新型コロナ、COVID-19は中国の武漢が原発地とされていますから東洋からもたらされた感染症ということになります。よって西洋人は東洋人よりも耐性がないという可能性はあるかもしれません。あと言われているのはBCGの予防接種の影響です。日本では1951年から接種の実施をしているので60歳代の方より若い世代は接種されているとみてよいと思います。また、ドイツにおいてはBCGの予防接種を実施していた東ドイツの方が西ドイツよりも新型コロナの感染者数が少ないという状況になっているようです。BCG接種の思わぬ効用があったという可能性もあります。アメリカでは全ての国民に医療保険が適用されているわけではなく病気になっても簡単に医者にかかれないというのはマイケルムーアの映画シッコなどで語られています。お金持ちしかまともな医療が受けられない医療後進国とも言える国です。また、イタリアはEUの緊縮財政の煽りで医療施設の縮小を余儀なくされ今回の新型コロナウィルスの流行前から医療崩壊が指摘されていた国でした。これらに比べて日本ははるかに医療の環境が良い国で今回の死者の少なさも日本の医療環境の良さが影響しているものと言えるのではないでしょうか。

意見は分かれるところだが経済をまわすべき

最後に言いたいのは、緊急事態宣言による経済的なダメージについて。宣言の解除は延期されてしまい5月いっぱいまで学校も休校、会社もこの状況の中で在宅ワークとなっているところも多いと思います。最も心配なのは中小企業や個人経営の飲食店やアミューズメント系のイベントなどに関連する企業、あとは百貨店やデパートなどの経営状況です。1ヶ月、いや2ヶ月間もほとんど営業が成り立たない状況が続いたら経営が破綻する企業はかなり出てくるはずです。休業補償を国がすると言っても、この自粛休業における損失を全て国が補償できるとは私は思っていません。おそらく見捨てられる企業はたくさん出てくるはずです、というか現時点でもう再開不可能という企業はかなりあるはずです。

最近いろいろなところで言われていることだと思いますが、インフルエンザが直接原因の死者は年間3000人、関連死を合わせると10000人です。この数字であってもこれまで日本人は現在のような騒ぎを起こすことなくやってきたので、5/10時点の数字から判断する限り、新型コロナCOVID-19についても同じように付き合えばよいのではないかと思っています。正直、無症状の感染者がいるということを知った時点で新型コロナの短期間での根絶は無理と私は判断しました。無症状の人は病院に行こうとも思わないし検査を受けようとも思わない、つまり管理するこなどできないですから。いつのまにやら感染が広がってしまうという事態を避けることはできないということを意味します。ワクチンができて長い時間かければ根絶はできるかもしれませんが、それでも根絶するというのはかなり難しいはずです。インフルエンザのようにワクチンがあっても毎年冬になると流行するの繰り返しとなるウィルスもある、一度は沈静化したように見えた結核も日本においては感染者数が増加傾向であったり、とにかくそう簡単には根絶などできないという前提で対策を考えるべきものではないでしょうか。ワクチンができるまでは重症患者のケアを徹底して死者を最小限にとどめつつ集団免疫を獲得しながら対抗する、ワクチンができたらインフルエンザと同様毎年予防接種受けつつ集団免疫での対抗も合わせて付き合っていく、というようなやり方になるのではないでしょうか。

 経済の話にもどりますが、経済へのダメージがさらに大きくなることを避けるために、できることであれば、できる限り各自治体や企業やあるいは個人の判断で自粛は終わらせて活動を再開していくという方向に国民みんなが考えをシフトしないとならないと考えています。

 これは完全に個人的なつぶやきになりますが、会社帰りにLUMINEやマルイに寄って洋服を見たりスタバなど喫茶店で一服するのが至福の時だったので今のこのお店がどこもかしこも閉まっている状態はもういや!なんです。みんなで力強く一歩を踏みだせたらよいのですが…まだ早いでしょうか?

悩ましい建築設計

新国立競技場の一悶着

 今年はオリンピックが日本で開催される予定でしたが来年になりましたね。6歳の子供がいるので競技を見せてもよいかなと思っていましたがチケットの抽選はもう終わっているようで、まあいいかなという気持ちになりつつあります。もともとオリンピックというイベントにそこまで興味があるわけでもなく、このような打上花火的なイベントを開催する予算があるのであれば違うことに使ったほうがよかったのではないかという考えが拭いきれない方なのでテンションがそんなに上がらない、というのが正直なところです。

 2013年9月に2020年のオリンピック開催国が日本に決まり国立競技場のデザインがメディアにもとりあげられました。もうすでに忘れ去られている感もありますが選ばれたのはイランの先鋭的な建築家、ザハ・ハディド氏の案でした。全体が甲殻類を思わせるようなデザインですごいなと思っただけで私自身はこのデザインが公表されて特に何か大きな問題を抱えた案だとは思っていませんでした。日本の多くの人は著名な建築家も審査員にいることだし、この案で進むのだろうなと思っていたはずです。しかし様々な情報を確認していくうちに自分の無知や見識のなさを自覚するとともに、ザハ氏の案がそのまま実現することはこの国にとって有益なことなのか、公的な資金を投入するに値する計画なのか疑問を持つに至りました。

 この案では建築に3000億円という多額な費用がかかるという試算がなされその他の問題も同時に表面化していきました。建物全体に架かる象徴的なキールアーチという梁の構造が現実的には施工不可能だという話も出てきました。キールアーチが巨大すぎて地下鉄にぶつかってしまうがどうするのか、その解決策は示されていませんでした。また、そもそもそのデザインが周囲の建築物やそれらが含有する歴史的な意味とマッチングしない、施設が大きすぎてオリンピック後に競技場を継続的に使用するにあたり、席を埋めるだけの大きなイベントは多くは存在せず維持費が財政を圧迫する可能性が大きいなど無視できない問題点がいくつか指摘され日本中で様々な議論がなされました。結局、2015年7月17日に安倍晋三首相によって新国立競技場のデザインは白紙撤回され再度コンペが行われた結果、建築家の隈研吾氏デザイン案が選ばれ、現在の新国立競技場が完成に至りました。 建築家の槇文彦氏はザ、ハ・ハディド案に対して2013年8月に異議を唱える論文を発表していました。彼の主張として注目すべきところは”外苑は当時の市民に広く解放されたスポーツ施設を持った地域であるが、主役は絵画館とイチョウ並木でありスポーツ施設は脇役に過ぎないことがはっきりわかる”という部分。そして異様に大きな新国立競技場とその脇にポツリと存在する絵画館のパースを提示してこの指摘をしています。大きすぎる、新国立競技場は周囲の建物、環境との調和を無視していることが一目でわかります。

ザハ氏の案 手前の絵画館とのミスマッチが指摘された

 このコンペ案はあたえられたプログラムに基づいてデザインされたものでありプログラムでは8万人の観客を収容する全天候型の施設が要求されていました。8万人もの動員をし得るイベントはロックコンサートくらいしか存在せず、それも年に何回開催可能なのかわからない。またプログラムによるとこの施設の総床面積は29万m2とされており国立代々木競技場の8倍、国際フォーラムの2倍以上の面積であり管理に必要な人員や消費エネルギーなどこれらをまかなう収入について十分に考慮されたものであったか疑問がもたれていました。問題の核心はザハ氏のデザインではなくコンペの募集要項であるプログラムの内容であったと言えます。建築エコノミストを自称する森山高至氏もその著書「非常識な建築業界 どや建築という病」で新国立競技場の一連の流れを見て、嫌な予感を覚えたと記しています。

 その理由は、それまでに森山高至氏が見てきた日本全国の公共施設に関する設計コンペの失敗例と酷似していたからだと述べています。要求がふくれあがる一方でそれらの要求の妥当性や実現性は検討、吟味されることなく設計の条件として提示される。審査する側もその建築物の歴史や地域との関係性や経済性、継続性などの深い考慮、検討なしにデザインのインパクトや著名な建築家のデザインであるかどうかをクローズアップして審査するのみで、失敗したとしても誰も責任をとるつもりもないという状況。このようなやり方が一過性のお祭り騒ぎのあとに莫大な維持費という負の遺産を地方の自治体などにいくつも残してきたと言います。

建築の設計者に求められるものとは

建築の設計者に求められるものは何なのか、それは昔から変わらないはずなのですが近代の歴史のどこかで歪んだ方向に建築関係者の考え方が変わってしまったのかもしれません。建築の設計者に求められるものは構造物として問題のないことや設備的に機能するものとすることなどは当然のこととして、それに加えてその建築物に求められる歴史的な意味における連続性を考えることや、地域性との融和、建物の使用者の利便性、その建物に関わる人たちの利益、発注者の意図の尊重、などそれらいろいろな思いを調整して形にすることであり、建築とは極めて公的な行為であり多くの制約のなかに成立しているものです。私的な芸術性の発露などは本来関係のないことのはずなのですが、いつからか表現建築家と呼ばれるような人たちの私的な自己表現を建築物に反映させることがまかり通るようになってしまったということなのかもしれません。ザハ氏は日本の神宮前の歴史や周囲の建築物についてどれほどの理解があったのかはわかりません。この周囲と調和しないデザインを斬新的だと褒めて予算が膨大になる試算があったにもかかわらず採用した審査員の側、しいてはこのコンペのプログラムを考案した役人達にも大きな責任があったはずです。ザハ氏はこのコンペに踊らされた一人の犠牲者とも言えます。

 設備設計者の目から見て建築の設計者の言うことは無理難題だと思われることがかなりあります。それでもできるかぎり設計者の意図を尊重して納まりを調整して、どうしても無理な部分は意匠的に妥協をしてもらったりします。私が関わってきた設計者はこういった面倒な調整事を一緒に考えてくれる、あるいは、こちらの考えをある程度尊重して調整してくれるまじめな設計者がほとんどだったと思います。まあ、中には設備の納まりなんか知らないよ、というスタンスの方もいらっしゃいます。その場合は、現場の監督や職人と打合せしながらなんとか納めるところは納めて、物理的にどうしても無理なところは、とにかく設計者に言って承認をもらうということでやってきました。各方面に対する調整事はやはり面倒な仕事だと思います。

 建築の設計は公的な意味合いの強い、私的な表現の入り込む余地は本来ないものと言いましたが、丹下建三が設計した代々木体育館のように公的な要求を満たしつつ設計した結果が芸術的にも高い評価を得る建築物となったという例もあります。そんな奇跡を起こすことを夢見ながら、明日からまたやっていきましょう。でも設備屋さんにも優しくしてね、というお願いもしつつ。

建築系資格の難易度

建築系資格の難易度について

 一昨年(2018年)の10月中旬から一級建築士の資格取得のために勉強を続けていました。例年10月の中旬に二次試験が実施されます。昨年は10/13(日)実施予定でしたが10/12に水害等の大きな被害をもたらした台風の影響で関東圏などでは試験が延期になり12/8(日)に再試が実施され、試験地が東京だった私は最近ようやく試験勉強から解放されました。1年と1ヶ月弱の期間、ずっと追い込まれた気持ちで過ごしてきました。今はまだ合否の結果は不明ですがとにかくゆっくり休めることがとてもありがたく思えます。

 世間一般的に一級建築士は難関資格であると言われています。受験した実感として難関と言えるかどうか、まずは私の肌感覚の話になりますが、かなり難しかったです。まさに難関資格と言われるに相応しい難しさでした。ではどう難しいのか、なぜ難しいと感じたか?建築設備士や一級管工事施工管理技士と比較しながらもう少し詳細を分析してみます。

合格率などの検証と受験した実感

 一級建築士 建築設備士 一級管工事施工管理技士の合格率などの数値の比較を簡単にまとめてみました。

一次試験
受験者数
一次試験
合格者数
一次試験
合格率
二次試験
受験者数
二次試験
合格者数
二次試験
合格率
総合合格率
一級
建築士
平成29年
26923494618.4%8931335637.7%10.8%
一級
建築士
平成30年
258782587818.3%9251382741.4%12.5%
建築設備士
平成29年
290784128.9%111258052.2%18.1%
建築設備士
平成30年
298393031.2%124264652.0%19.4%
一級管工事
平成29年
17132757944.2%10158642163.2%32.6%
一級管工事
平成30年
16473547133.2%7608401152.7%21.6%
一級建築士および建築設備士のデータは建築技術教育普及センターのホームページを参考に、一級管工事施工管理技師は総合資格学院のホームページを参考に筆者がまとめたものです。

 受験した実感から言っても一級建築士が最も熾烈な競争であることはわかっていましたが数字を見てもやはり一級建築士が最も合格しにくい資格であることがわかります。大雑把に言ってしまうと一級建築士は9~10人に一人、建築設備士は5~6人に一人、一級管工事施工管理技士は3~4人に一人が合格するという捉え方ができます。上位10%程度に入ることは例えば学生の頃に一学年が200人いたとして20位~30位以内程度の成績を修めることだと想像してみてもそんなに簡単なことではないとわかります。

 一級建築士試験の難しさの要素として私自身が感じたのは、一次試験の内容において特に言えることですが試験問題で問われるテーマが他の資格と比較して広範囲にわたっていて覚えなければならないことがとにかく多いということです。かつ、その知識はただ覚えただけでではなく確実に理解していないと対応できない問題が多いと感じました。建築設備士の試験も一級管工事施工管理技師の試験もあたりまえですが主に建築設備やそれに関する施工の知識を問われます。建築一般知識を問う問題もありますが一級建築士ほど広範囲の知識が問われる印象はありません。建築設備関係の仕事をしている人であれば仕事上の常識と身につけた知識にプラスして過去問題を反復練習すれば十分対応可能な知識が問われる印象です、だからと言って簡単だということではありませんので注意は必要ですが。一方、一級建築士で建築の一般的な知識を問うのは5科目に分かれた中の「計画」になりますが、この科目の問題で過去の建築作品について問われる問題が毎年5門程度出題されます。この類の問題は過去問題の反復練習でかなり対応はできるのですが、極論になるかもしれませんが出題者の考え方次第で世界中に存在する全ての建築作品を出題のネタとして使うことが可能です。勉強する側からすると、いったいどこまで勉強して、どこまで対応すればいいのか困惑します。ごく一部の建築関係者しか知らない建築作品を出題のネタにしてそれを知っているか知らないかを問うて意味があるのかどうか疑問に思ってしまいますが、受験する側はこういうものだと割り切って時間と記憶力の許す限り暗記するしかない、ということになります。試験当日は見たことも聞いたこともない建築作品が取り上げられていた場合、それはそれで置いておき、選択肢の中の自分が知っている内容を手がかりに正答肢がどれなのか判断することになります。

一級建築士の一次試験の科目はⅠ計画20問 Ⅱ環境・設備20問 Ⅲ法規30問 Ⅳ構造30問 Ⅴ施工25問 の5つに分かれていて合計125問 500選択肢。ちなみに建築設備士の場合は 建築設備50問 建築一般知識30問 建築法規20問 の3つに分かれていて合計100問 500選択肢 です。科目を見ただけでも一級建築士として学習しなければならない範囲の方が広いことがわかります。よく言われているのはⅡ環境・設備 Ⅲ法規 Ⅳ構造 の3教科は確実に点数を取らなければならないということです。Ⅰ計画とⅤ施工はその年によって時流を考慮した内容が出題されたり比較的出題内容が流動的で過去問題をやり込んでも対応できない問題が出題される傾向があります。Ⅲ法規は関係法令集を持ち込めるので確実に得点源にできる可能性があるのとⅣ構造は法改正の絡み以外は内容が流動的に変わることはほぼない、Ⅱ環境・設備も同様に最新の用語を問うような問題以外は過去問題の変形が出題されるのでこの3教科を確実に得点することが重要視されます。

とは言っても人によって得意、不得意があるのでそんなにうまくはいかないのが世の常です。私は法規がどうにも苦手で試験直前の模試でも7割得点するのがやっとで本試験でも23点と8割に届きませんでした。結局、得意教科の点数を伸ばして不得意教科の失点をいかになくすかということが大事になります。Ⅰ計画やⅤ施工が得意な方も当然存在して、得意教科で得点を伸ばして総合の点数で合格ラインをクリアするというパターンもあるので自分の得意、不得意を把握して作戦を考えて試験にのぞむ必要があります。

 気をつけなければならないのは各科目毎で足切りラインがあるということです。平成30年の試験についてはⅠ計画11点 Ⅱ環境・設備11点 Ⅲ法規16点 Ⅳ構造16点 Ⅴ施工13点 でした。この足切りのラインはほとんど毎年変わらないと思うので受験する方はなんとなく頭の片隅で覚えておくとよいと思います。各科目半分超は得点しなければ総合で合格点をクリアしていても不合格となるので、結局のところバランスよく得点できるように全ての教科の勉強を合格ライン目指して勉強するはめになるという…楽に得点できる方法があればいいのですが、なかなかうまい話はないというのが現実です。

一級建築士試験の二次試験 製図の難しさ

 私は現在44歳です。建築士の資格取得のために本格的に勉強し始めた一昨年の10月の時点では42歳でした。40代の誰しもが当てはまると思いますが20代のころや30代の前半のころと比較して体力、記憶力、集中力などいろいろな機能が低下していることを実感していると思います。一番わかりやすいのは体力の低下でしょうか。通勤時に若い人の歩調が早く、追い抜かれることが多くなったことや子供と遊んでいても子供の走るスピードについていけないなど…目に見えてわかりやすいので体力が落ちているという事実はかなり実感しやすいと思います。

なぜ急にこのようなことを言うのか、その理由は一級建築士の二次試験の製図は体力勝負だとよく言われるからです。6時間30分の時間内で問題文の読み取りからプランニングをしてA3用紙にびっしり記述の回答を書き込んで図面も形にするところまでやりきらなければならない試験です。やってみるまではわからなかったのですが時間内で満足いくものを完成させることは至難の業です。図面の評価はランクⅠ~Ⅳの4段階に分けて評価されます。ランクⅠが合格ということになるのですが、私は資格学校で描いた図面はすべてランクⅣでした。正直に言ってこの製図という試験はかなり苦手だと感じています。当然ですが設備図を描く場合とも考え方は違うし、設備の絡みもあるのですが実務と違って試験用の図面のための約束事をとにかく守るという考え方がメインで試験においては実務での経験は、そこまで役に立ちません。言い訳になってしまう部分もありますが何よりも、体力、集中力、記憶力の衰えを実感する中でこの製図の試験を若い人達と同レベルでこなすことがそもそも困難であることを痛感しました。

 合格者の年齢別の割合も一次の学科試験においては40歳以上が20%に対して二次の製図試験では14.1%に下がります。一方、27歳~29歳および30歳~34歳の学科の合格者の割合は20%程度に対して製図は25%に上がる傾向となっており製図試験で最も合格者数の割合が高い年代はスポーツ選手が経験と体力を合わせた力がピークになる年代と重なって見えます。資格学校で6時間30分での模試の実施を何度か繰り返しますがどう頑張っても若い人達のスピードについていけない自分にもどかしさを感じ続けていました。隣で試験を受けていた若い女性の方がよほど私よりも容量がいいのは明白でした。年を重ねて良くなることもありますが、試験に関して言えば年をとって有利になることはほぼ何もないと言えます。特に製図試験という体力勝負にも近い試験においては年をとればとるほど不利なると考えていて間違いないです。でもだからと言って諦める必要性はまったくないですし、私も今年だめだとしても不利な条件の中でどう戦うかを再度考えながらあと2回、挑戦してやりきるしかないと思っています。

資格取得は30代前半までに済ませる方がよい

試験の難易度の話から少し脇道にそれた感はありますが、結局のところ資格取得は20代かあるいは30代の前半までのまだ体力、記憶力が衰えていない時期に済ませておくのがベターです。できれば勉強時間が自由にとれる未婚の時期での取得が理想的です。結婚している場合は子供ができるまえまでに取得したほうがよいです、子供が出来た場合思っている以上に自分で自由に使える時間は減ります。あとは資格学校に通うのも配偶者とよく話し合って合意のうえでなければ成り立ちません。勝手に自分で決めて申し込んで事後報告で済む家庭はそれでもよいですが、時間もお金もかかるものなので最低限家庭内で合意したうえでことを進めないと試験勉強自体が続けられない事態に陥る可能性はあるので注意が必要です。また特に一級建築士試験は勉強時間を多くとらなければ合格が困難ですから予想以上に配偶者をはじめとする家族への負担も大きくなると思っておいた方がよいです、特に小さい子供がいる家庭においては。言葉は悪いかもしれませんが資格試験への挑戦は一種の賭け事でもあると思っています。中毒性があります。自分の能力を超えた試験の挑戦を何年も繰り返して資格学校に多額のお金を注ぎ込むという方もいるようですが、それは資格への執着に他なりません。何回挑戦するか、時間的にどこまで許されるか、金額的にどこまで許されるか、自分で判断してここまではやるけど、この条件超えたら諦めるというラインは決めておいたほうがよいです。試験にこだわって時間とお金を無駄に使うよりも他の時間に使ったほうがよほどよい人生を送れる可能性は十分にあるので。

 お役に立つ情報かわかりませんが、自分が試験を受けようと思った時にネットを調べてみて、資格の難易度について実感のこもったコメントが意外と少なかったので書いてみました。

建築設備から映画まで、なんでも気になったことを書きます